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2012年10月12日に学術雑誌としてたいへん権威あるScienceのWeb Site Newsにて,アンコール遺跡群の採石場と石材輸送に関する研究が紹介されました。
ここ数年にわたり,内田悦生と下田一太とがクーレン山麓の石切場とそこからアンコール遺跡群への古代水路運搬址の調査を進めていましたが,このたび,その成果をJournal of Archaeological Scienceにて発表したところ,これがアンコール遺跡の生産的背景を示す興味深い事実であるということでニュースとなったものです。
http://news.sciencemag.org/sciencenow/2012/10/scienceshot-building-angkor-wat.html?ref=hp

加えて,10月19日にはNew Scientistという英国科学雑誌でも紹介されました。
http://www.newscientist.com/article/mg21628874.300-building-blocks-of-angkor-wat-were-shipped-in-by-canal.html

アンコール遺跡群を形成する石材は大きく7種類に分類されますが,今回発見された石切場はこのうちの4種類を含んでいます。しかしながら,残りの石材の起源についてはまだ不明なままであり,次回乾季にも現地調査を進める予定です。(一)
インドネシアを代表する遺跡であるボロブドゥールは1970年代にユネスコを中心とした国際協力の下,大規模な修復工事を行いました。1983年に工事が完了してから約30年間が経ちますが,2010年のムラピ山噴火による火山灰の被害等も危惧されるところで,新たな保存処置の必要性が問われつつあります。
120622_01.JPG今年1月からドイツ政府の支援にもとづき,ユネスコは保存処置のための予備調査を開始しました。6月には2回目の予備調査が実施され,主に浮き彫りの保存処置と構造の安定性を評価する現地調査が行われました。

ボロブドゥールはバイヨンと同等の規模を有しており,世界の二大仏教遺跡として双璧をなすといっても良いでしょう。ボロブドゥールは土饅頭型のストゥーパ であるのに対して,バイヨンは複合的な祠堂と回廊が連結されており,室内の有無によって建築形式の上では大きな違いがありますが,宗教建築としての創造上 の発露が双方の寺院には共通していることは誰しもが感じるところではないでしょうか。
120622_02.JPGボロブドゥールに鎮座する無数の座仏像と,バイヨンに林立する尊顔塔とは,いずれも来訪者を神の遍在の中に静かに包み込み,寺院の長大な回廊を礼拝する内に深遠なる精神世界へと内向させ,最終的には天上の世界へと昇華させる大いなる器です。

120622_021.JPG過去に行われた修復工事では構造的な安定化を図るために基壇内部にRCの大掛かりな構造体を埋め込むことになりましたが,以後も1400枚にも及ぶ浮き彫りパネルには基壇背面からの漏水が認められており,埋設されたコンクリートとの関係による石材劣化が懸念されています。ボロブドゥール保存事務所では2003年より回廊の部分的な解体再構築を進めており,遮水処置は効果を上げていますが,なんらかの科学的な保存処置を実施するべきかどうか,今年から調査が開始されました。
120622_03.JPG浮き彫り保存にあたっては,アンコール遺跡等でも実績のあるケルン大学のライセン教授夫妻とウェンドラー氏が現地調査を行いました。浮き彫り表面へのカールステンパイプによる含浸量調査・石材の含水率調査・超音波伝播速度やドリル貫入による強度試験・壁面からの水分蒸発量調査などが実施されました。ボロブドゥールは安山岩の石積みよりなっていますが,それらの石材が約8種類に大別されることも分析の結果明らかになりつつあります。
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120622_05.JPG120622_06.JPG一方,遺構の構造的な安定化の評価にあたっては,モニタリングの方法や体制,データの分析方法について保存事務所の専門家から現状を共有し,また過去に実施した地盤工学的な調査結果についてもできるかぎりの資料を収集しました。保存事務所には1970年代に行われたユネスコによる修復工事の資料が大量に保管されており,それらのアーカイブやデータベースの作成も進められていますが,今回は既に報告書としてまとまったものを対象として調査を行いました。
120622_07.JPG1週間ほどの短い調査でしたが,ボロブドゥール保存事務所とジャカルタの文化省における会議にてこうした調査結果と専門家からの所見が報告されました。今後さらにこうした調査が求められるところです。
120622_08.JPG最終日にはボロブドゥールの前に設置されたステージにて,往時の寺院建立をストーリー立てた舞台が披露されました。伝統的な舞踊と現代的な演出とが織り交ぜられた完成度の高い見事な舞台で,ボロブドゥールとの別れが名残惜しくなる一時でした。(一)
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昨年,2011年はバンコクの洪水が広く日本でも報道されましたが,カンボジア,アンコール遺跡もまた例年にない異常な冠水範囲を記録しました。

浸水に伴う地盤の軟弱化により遺跡の倒壊や変状が認められた遺跡もありました。アンコール遺跡群は古代水利都市とも呼ばれるほどに,バライを始めとする大規模な水管理の施設が多数造営された都でした。ここアンコールでは乾季に備えて雨季の間に貯水することが重大事の一つであったことは確かですが,それ以上にいかに効率よく排水し都市の生活環境を維持するかということに高い関心があったように思われます。

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通常ではとてもフルには活用しきれない水路や環濠,溜池が不定期におとずれる異常気象時には,きわめて重要な排水施設であったことが実感されます。

昨年の記録的な雨量は11ヶ月間で2000ミリ以上を記録しており,通常の年間降雨量1400ミリ程度を大きく上回りました。

バイヨン寺院も昨年の雨季には周囲が冠水し,あたかも湖に浮く小島のような様相を呈していました。また,アンコール・トム内は広く森が広がっているのであまり被害が目立つことはありませんでしたが,多くの地区が長期にわたり冠水しました。

こ うした状況の中,遺跡の保存開発を担うアプサラ機構は排水のために既存の道路を切断し,また新たに排水溝を設ける処置を施しました。アンコール・トムの北 門橋は部分的に崩壊したため,現在では鉄筋コンクリート造の架橋を構築し,また死者の門にも新たな橋を設置している最中です。

 

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アンコール・トム内の排水溝は現地表面を大胆に掘り下げるもので,地中からは多数の遺物が掘り返されているのが確認される箇所も少なくありません。また,道路を切断する工事では20世紀初頭にこの道路を敷設した際に用いた遺跡の散乱石材が多数掘り返され,そのまま放置されています。

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こうした排水のための対処が必要であることは確かですが,現状の対応はあまりにも場当たり的なもので,遺跡の構造的なオーセンティシティーの損失,考古学サイトの攪乱,既往修復への不用意な混乱を招いているように感じられます。

当時の都市構造と上下水の管理の在り方を検討し,将来的な研究の妨げとならない方法を慎重にデザインすることが必要です。

アンコール遺跡群では,今年4月に国際的な研究チームが共同で,世界でも考古学研究を目的とした事業としては最大級の航空測量を行いました。現在データの処理が進められているところですが,古代の水利構造の解明,そして現在の水環境の改善にあたり極めて重要なデータになることは間違いありません。

JASAでは日本からの研究者と共同で,これらのデータを利用した水利工学の研究を進めていくことを予定しています。(一)


 2月末から3月上旬にかけて、内田悦生教授の岩石調査と平行して、アンコールを起点とし、ベン・メアリア遺跡から大プレア・カーンへと伸びる王道沿いの遺跡群の調査を行いました。

 

 東南アジア大陸部において広大な領土を有したクメール帝国は、アンコール王朝の王都であったアンコールから、領土内各地の大型地方寺院へむけて放射状に"王道"と呼ばれる幹線道路を建設していきました。今回調査したのはそのうちアンコールから東へと伸びる王道で(以下東道)、ベン・メアリア寺院を通過し、現在大プレア・カーンまで確認されています。この道はさらに東へとのび、隣国チャンパ(現在のベトナム中部)へと通じていたとも考えられています。

 

 この東道沿いには、日本の江戸時代の街道のように、ある一定の間隔(人間が一日に徒歩で進むことができる距離)で宿場町のようなものがあったと考えられており、現在でもその名残としてベン・メアリアから大プレア・カーンまでの間には約14kmおきに"宿駅寺院""宿駅[ダルマサーラとも呼ばれる]"と呼ばれる遺跡がほぼ対をなして建っています。しかし、これまでは道路状況が非常に悪かったため、この東道及び東道沿いの遺跡群の調査が本格的に行われるようになったのはごく最近のことです。

 本調査の焦点は、この寺院の建造年代(全ての寺院が一度に建てられたのか、どれか手本になるものがあったのか)や共通性の有無を調べることでした。今回の調査では、昨年の3月の調査に引き続き、平面図の作成や、建材、石材調査に加え、装飾的な観点からの調査を実施しました。

 といっても、まだまだ遺跡は密林のなか。遺跡全体を回るだけでもかなりの一苦労、全貌を把握することもままならない遺跡もありました...。
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ですが、正確な図面を作成して行くなかで、少しずつ面白いことが分かり始めています。

 クメールの遺跡では、全く同じ形や規模の寺院が殆ど存在しないことが通例ですが、今回調査している王道沿いの遺構は寺院の規模、構成ともに驚くほど酷似しているのです。つまり、あるひとつのプロトタイプが存在し、それとほぼ同じ設計のもと、とても計画的に、システマチックに王道沿いの宿場町の整備がなされていたと考えることができます。こうした寺院建造のあり方は、数多のクメール遺跡を考える上で重要なポイントとなるでしょう。

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東道は、これらの寺院の建築・装飾様式などから、大きく分ければ、アンコール・ワットを建造したスーリヤヴァルマン2世と、バイヨンを建造したジャヤヴァルマン7世の時代に大規模な整備をされたと考えられていますが、プレ・アンコール期から存在したという説もあり、その年代や整備方法、過程については多くの謎が残ります。東道に建造されているラテライト造の橋梁の年代についても再考する必要があるでしょう。

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 今回の調査を論考にて整理し、さらなる調査を進めて行くことで、広大なクメール帝国の繁栄の秘訣を知る手がかりがつかめるのではないかと考えられます。今後は大プレア・カーン以東の調査を進めていきたいと考えています。(島田)

先日、石切場の調査についての紹介をしましたが、その後も候補地の踏査が続き、ようやく2週間ほどの調査を終えました。

 

これまでにもアンコール遺跡の石切場については多少の知見がありましたが、今回の調査で過去に確認されていたサイトがそのごく一端に過ぎなかったことが明らかになりました。

 

石材を積み上げて彫塑的な建築を形作ったアンコール遺跡には独特の造形力に満ちていますが、石切場の痕跡もまたある種独特の空間的力強さを感じました。

今回の調査でも最も大きなまとまりをもった石切場では、岩盤が大きく不整形にえぐられた空間に意匠的なものを感じるほどの迫力がありました。私自身は訪れたことがありませんが、何度となく写真で見ているインドの石窟群エローラのカイラーサ寺院の威容が、なぜかフト石材を切り出した窪地の中に浮かんでいるように感じられたのは、暑さのために朦朧としていたためか、あるいは岩盤のもつ力感のためか。。。

120301_1.JPGまた、石切場から遺跡群までの運搬経路についても、踏査と車両での調査により、ほぼ確証が得られるほどに現場での確認地点を増やすことができました。1000年もの年月を経て、運搬経路が極めて良好な状態で残されていることに驚くばかりでした。

 

120301_2.JPG調査の詳細については論考に整理の上、紹介したいと考えています。(一)

早稲田大学理工学部 内田悦生教授を中心として、アンコール遺跡の採石場の調査を行っています。

 

この調査、実はかなり昔から少しずつ蓄積してきていましたが、昨年、かなり大規模な(と思われた)採石場を発見し、次の乾季には本格的な調査を、と首を長くして待っていたのです。

 

場所は以前からアンコール遺跡の採石場として知られていた所の付近ではありますが、実際には足を踏み入れたことのない地域に大型の石切場の痕跡が広がっていることが分かりつつあります。

 

2月末ともなると、午後はたいへんな暑さですので、調査は午前中の半日勝負。バイクや徒歩で村人に聞き込みながら、とにかく探します。

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120222_2.JPGその結果、ここ二日間の調査では特に大きな採石地区が確認されました。

 

120222_3.JPGこうした石材がどの遺跡に運ばれて使われているのか、そのための手掛かりを得るために帯磁率という石材の磁力の計測を進めています。そうした計測値や石材の大きさなどから考えても、バイヨン期の石材が今回発見された採石場より切り出されたことが分かってきています。

採石場、そしてアンコール遺跡までの運搬経路に関する調査をさらに継続する予定です。(一)

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古今東西,レンガ造の建築は数知れない。レンガの歴史を紐解けば,紀元前4000年の頃,メソポタミア文明においてレンガが初めて積み上げられ,建物が造られたという。そのころは,粘土に藁などをすき込み乾燥させただけの「日干しレンガ」であったようだが,それから1000年ほど後には焼成レンガが作られるようになり,建物は大型化していった。紀元前700年ごろからは世界各地の文明において焼成レンガが重要な建造物の材料として普及していく。焼成レンガは耐候性に優れており,環境によっては石材よりも長持ちするといわれ,今でも数々の遺跡が過去の栄華を伝えている。

 

アンコール遺跡と言えば,石造建築。ということでレンガ造の遺跡は影がやや薄いものの,遺跡群全体で見れば石積みの建物よりもレンガ遺構の方が多いだろう。また,アンコールの組積建築の歴史を通観すれば,若干の例外を除けば,初期の建築はレンガ造のものばかりである。カンポット州の海岸線近くの洞窟内に建てられたプノン・チュゴック寺院は,アンコール文明の中でも最古の遺構の一つに挙げられ,おそらく6世紀の建立に遡るが,これもまたレンガ造の建物であった。

 

111215_01.JPGこのようにアンコール文明の宗教建築は,古くはレンガ造の寺院の方が一般的で,10世紀に至ってもなお主要な建物はレンガ造である場合が多い。プレ・ルプや東メボンなどはその例であるが,それ以前のプノン・バケンなどアンコール王朝成立直後の寺院の一部には,砂岩造の寺院も姿を現しているから,レンガ造と石造寺院の優劣については判断しかねる。さらに,アンコール時代後期に至ると,一つの複合寺院の中に砂岩造・ラテライト造・レンガ造が混在しているケースもあって,建材の別がどのような意味を持っていたのか,ますます分からなくなってくる。アンコールの芸術文化全般に強い影響を与えたインドでは『シルパ・シャーストラ』と呼ばれる建築書によって宗教施設の様式が規定されているが,そこでは「木で寺院を建てるよりもレンガで建てる方が百倍価値があり,レンガ造よりも石造の方が千倍の価値がある」と記されている。あまりにも価値の開きが大きいことに驚いてしまうところだが,とにかくここカンボジアではコトはそれほど単純ではなかったようだ。

 

煉瓦造の建物は重い石材を遠くから運ばなくても良いし,積み上げのために大きな装置も必要としなかっただろうから,比較的手軽に造られたように思われるかもしれないが,レンガを粘土から準備する各工程を想像するなら,容易ではない工程を経ていることが理解されよう。胎土の採取,焼成のための薪の収集,高温に耐えうる窯の構築,数日に渡る焼成,そして一棟に何十万個ものレンガを隙間無く積み上げる作業,と気の遠くなる仕事が必要となる。

 

アンコール遺跡の石造建築は,「空積み」といって接着剤やダボなどを使わずに石が積み上げられているが,レンガ造の場合には,接着剤や充填材を用いて丁寧に一個ずつ積み上げられている。接着剤は不明だが,おそらく樹脂が利用されたものと考えられ,近隣国のレンガ造の遺跡では分析によって樹脂分が認められている場合もある。また,レンガ積みの壁面ではレンガがピッタリと合っているが,そのためにはレンガを入念に摺り合わせる仕事が必要だったはずである。しかしながら実際に,摺り合わせの作業を試してみると,いつまでたっても綺麗な接合面には仕上がらない。建物一棟につき,いくつのレンガが使用されているのか数える気力さえおこらないが,こんな大変な作業を全ての部材で繰り返したと思うと気が遠くなる。そんなことで,レンガ造の建物もそんなに簡単に造れたわけではなさそうだ。

 

 

さて,そんなふうに丁寧に造られた建物も,次第に崩れていつかは土に戻ってしまう。レンガ造の建物が壊れる原因は3つに大別される。ひとつは植物によって破壊されるものである。タ・プロム寺院を思い浮かべれば説明の必要もなかろうが,レンガ造の場合には個別の部材が小さいために小さな草木でも簡単に根を張り,レンガの隙間に侵入し,レンガ積みをバラバラにしてしまう。これを防ぐためには定期的な草刈りが不可欠だが,亜熱帯気候にあるここカンボジアでは雨季にもなれば一ヶ月で1m以上も植物は成長し,メンテナンスが追いつかない現実がある。また,寺院全体がジャングルに覆われると,巨木が倒壊し建物に直撃して倒壊に至るケースもある。次なる崩壊の原因は,建物の不等沈下によるものである。レンガ造の建物は壁体が比較的厚く,荷重が均等にかかるように工夫されているように見えるが,それでも上部構造の部分的な集中荷重や,基礎の不均質な強度により建物各所に浮沈が生じ,それが原因で壁体や屋根に亀裂が生じることがある。第三の崩壊の原因は,人間の活動によるものである。特に建物の地下に安置されていた宝物の類を盗掘する行為が基礎の不安定性を促している。

こうしていくつかの原因が複合的に作用して積み上げられたレンガ造の建物はバラバラと崩壊してマウンドと化し,いつしか大地に帰っていくのである。

 

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111215_03.JPGこうしたレンガ造の崩壊をくい止め,保存しようとする活動は石造建築にも増して困難なことである。というのも石造であれば建物が崩壊しても石材の原位置を特定してこれをもとの位置に戻し,建物全体を再構築することも可能であるが,レンガ造の場合にはそうはいかない。一つ一つのレンガが小さく,非個性的であるために,原位置を特定するのは不可能に限りなく近い。また,レンガ造遺構の修復工事では,倒壊した部分に新しいレンガを使い,どこが古いのか,どこが新しいのか区別できるようにするのが一般的である。しかし新しいレンガであっても数年も経てば区別ができなくなってしまうので,新旧の判別ができるように刻印をしたり表面の仕上げに変化を付けるなどの工夫をすることが多い。また新しいレンガはたいていの場合,色調が同じであるために,積み上げた後にその部分だけがノッペリとした新築風の感じになってしまう。全体と調和させるために意図して色調を変えるなどして奥行きを出すためにはレンガの焼成から工夫が必要となる。

 

建物が変形している場合でも,石造であれば一部を解体して積み直すこともできるが,レンガ造の場合には,そうはいかない。一度ばらしてしまうと,元通り積み上げることは難しいし,そもそもばらしている最中からレンガが壊れていってしまう。そのため,変形を保ったままにそれ以上の崩壊が進まないように構造的な安定化を図ることになる。建物の補強はできるだけ目に付かないようにしたいものの,あわせて修復処置の再現性,つまり新しく加えた補強材料を取り替えるための可能性を残しておくことは難しい。

 

111215_04.JPGレンガ積みに亀裂が空いている場合には,さらなる植物の侵食を防ぐために,亀裂の内部を丁寧に洗浄して,新たなモルタル材料で充填することになる。しかしながら,耐久性や強度が高く,施工性が良く,また微妙な柔軟性を持ち,かつレンガに悪影響を与えることがないような充填材料の開発のためには様々な実験が求められ,建物そのものの構造や,レンガの組成,環境条件などの違いもあり,決定的に最適な材料を各遺跡で開発することは容易ではない。

 

 アンコール遺跡のレンガ造の修復はこれまでにも多くの事例がある。プラサート・クラバンの修復工事は20世紀半ばに行われ,前世紀に多くのアンコール遺跡の修復に介入したフランス極東学院による修復工事の工法をよく示しているが,壁体内部を鉄筋コンクリートとして構造的な躯体とし表面にレンガを積み上げる大胆ともいえる手法であった。この寺院は祠堂内壁の彫刻にこそ重要な芸術的価値があったことから,その彫刻面を保存するためにもこうした手法は十分に容認されることだろう。その他,1990年以降はプレア・コー寺院やプレ・ルプ寺院,また最近ではプノン・バケンでもレンガ造遺構の修復工事が行われている。それぞれの劣化・倒壊状況に応じて,同じレンガ造建築であっても特徴的な保存修復工事が実施されてきた。

 

 

 2009年から早稲田大学建築史研究室では7世紀,プレ・アンコール期の王都であったサンボー・プレイ・クック遺跡群におけるレンガ造祠堂の修復工事を開始した。2001年以降,仮設的な補強処置により倒壊をくい止めることに尽力してきたが,さまざまな支援を受け小規模ではあるものの本格的な修復工事を進めるに至っている。60棟にも及ぶレンガ造の寺院が奇跡的にも1400年の歳月を経て残存している例は東南アジアにおいては他に例がない。また,カンボジアにおいてこの遺跡群は専制国家が成立したことを占めるメルクマールとなる痕跡である。

 

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 モニュメントが残されてきたのは,まさに世代を超えたリレーによる活動のたまものだ。かつては敬虔な宗教心から保護が継続されてきた。たとえ信じる神が替わっても,モニュメントに手を加えながら,自分たちの信仰の場として,掃き清め,草木を丁寧に取り除きながら,バトンが受け継がれてきた。今日,多くの寺院に神は不在である。信仰の力に代わって寺院から遺跡になった対象を保護する意味も変化した。長大な時代の中に私達は生きているという歴史観を深め,過去から多くを学び,それを後世に引き継いでいこうという気持ちがリレーを続ける意義を支えている。そして多少の余裕ある走者は,建物を往時の姿に近づけるためにいそしみ,そこから感得される多用な価値を後世に伝えようとする。レンガ造の建物という,とても脆弱な対象であるからこそ,そのリレーを確実に次世代へと引き継いでいかなくてはならない。

 

 

 

サンボー・プレイ・クック遺跡群における修復工事は「住友財団」,「文化財保護芸術研究助成財団」からの支援の下,カンボジア文化芸術省と早稲田大学建築史研究室によって進められています。また,在カンボジア日本国政府大使館の協力により修復工事に必要となる資機材支援を「見返り資金」により受けています。修復作業にあたっては,日本国政府アンコール遺跡救済チームのカンボジア人技能員を現場指導に派遣するためにJST(アンコール遺跡の保全と周辺地域の持続的発展のための人材養成支援機構)からの支援を受けています。(一)

 

7月18日に国際司法裁判所は、プレアビヒア寺院を非武装地帯に設定し、カンボジア・タイの両国は軍部隊を撤退させるようにとの勧告をうけました。

 

その後、プレアビヒア寺院の安定したとの噂が聞かれるようになり、現状での情勢を確かめるために現場の視察に向かいました。

既にシェムリアップから寺院までの道は全て舗装され、3時間強で訪れることができるようになっています。遺跡手前の博物館は未だに展示物はありませんが、6月にはシェムリアップで博物館の運営に関する会議が行われており、ユネスコの担当者の話によれば今後石彫の展示物がプレアヴィヘア州の倉庫などから移動される予定であるとのこと。

 

今年3月、国境での衝突が再度激化する前に遺跡を訪れていましたが、遺跡からの最寄りの村は、以前より住民が増えているようで、ゲストハウスやマーケットも少しずつ充実してきているように見受けられました。

 

遺跡へ入る直前のダンレック山脈直前の急坂は、以前はジェットコースター並の勾配で、車の限界能力に感心させられるほどでしたが、昨年から急ピッチで新たな道路整備が進み、大きく曲がりくねりながら、より緩やかな傾斜で登れるようになってきています。おそらく3月から7月にかけては工事が中断していたものと思われますが、現在では複数の重機が工事にあたっており、近い将来寺院の参道脇まで舗装路がつながることでしょう。

 

110731_1.JPG 110731_2.JPG寺院はこれまで以上に迷彩服に身を包んだ兵士が大勢いましたが、緊張感はなく、非武装地帯とする勧告を受けたこともあってか、誰も機関銃を肩にかけている兵士はいませんでした。3月時点では、兵士の数こそ限られていたものの、ほとんどの兵士が機関銃を持っていたこととは対照的でした。

110731_5.JPG寺院の内部には新たに塹壕が築かれ、積み上げられた土嚢袋もまだ真新しく、そうとう緊迫した雰囲気であったことを思わせるものでした。写真の撮影などは厳しくとめられましたが、こうした塹壕の中には未だに砲弾などが残されており、表向き武装解除しているものの、衝突にすぐさま対処できる状態であるのかも知れません。

 

寺院内でも一番下のゴープラの付近、そしてタイとのまさに国境線沿いにはこうした塹壕と、仮設の小屋が多数築かれ、ソーラーパネルやパラボラアンテナも設置され、場所によっては小さな畑に鶏が走り回るというような光景で、スグに撤退するようには見えない状況ではありました。

 

110731_3.JPGタイ側から観光客が入っているという噂もありましたが、実際には厳重に鉄柵がタイからの入り口を封鎖しており、カンボジア兵が双眼鏡でタイ側を監視していました。

カンボジア側からは西洋人が数名、日本人が私達の他にもう一組訪れていましたが、もうしばらく静観して情勢を見極めてから訪問すべきでしょう。

寺院そのものの被害は軽微でしたが、多少のロケット弾や銃弾の着弾痕が石積みに残されています。兵士によればロケット弾によって落石した部分があるとも報告されましたが、あったとしてもごく一部だと思われます。

110731_4.JPGまた、誤射だったのかも知れませんが、カンボジア側の石積みに銃痕が残されている箇所も見られました。

 

寺院最奥から見渡すカンボジアの大地は、悠久の時間の流れの中で、この刹那的な出来事を蔑視しているような雄大な落ち着きを払っていました。

4月末から5月初めのゴールデンウィーク期間中にコンポン・スヴァイの大プレア・カーン遺跡群での調査を行いました。

 

この古代都市は一辺4.5kmの環壕に囲繞された、外郭構造を有するクメールの都市の中では最大の規模を誇ります。これまで中心部や内部に散在する寺院の研究が行われることはありましたが、都市の全容を解明することを目的とした研究はほぼ皆無でした。

P1120799.JPG今回の調査は、都市の外郭構造の規模・大型貯水池バライの規模・各寺院をGPSをもって測量することで、この古代都市の配置計画の復原研究を目的としました。

外郭の環濠は幅が200m以上もあり、その内外は土塁によって形作られています。環濠の中に立つと、長大な二列の土塁に挟まれて距離感覚を失うほどです。また、貯水池を形成する土塁もまだ壮大な景観を呈しています。

 

P1120723.JPG都城内部は水田耕作地も多く、若干の住民もいますが、大半はジャングルで足を踏み入れることができない土地でした。調査は雨季に入りつつある時期であったため、すでに大地はぬかるんでおり、場所によっては調査地区への移動は困難を極めました。また、遺構も既に青々と茂った下草に覆われ始めており、それらの測量は手こずらされました。

 

P1120657.JPG P1120684.JPG P1130010.JPG雨が降り始めた時期ではあるものの、日差しはきつく、炎天下の中での作業が続きました。特にGPSの計測は上方が開けた所で実施しなくてはならないため、木陰に隠れることができず、過酷な作業となりました。

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(上の写真右下と左下で測量しているペアがいます)

 

今後測量データの解析と分析に入りますが、プレア・カーン遺跡群の他、アンコール遺跡、ベンメアレア遺跡等とも関連させた都市の平面配置計画の解明につながることが期待されるところです。(一)

バイヨン寺院の南北外縁にて2月から4月にかけて日本国政府アンコール遺跡救済チームでは考古学的発掘調査を実施しました。

P1110138.JPGこれは昨年末から今年初めにかけて実施した外回廊南地区における発掘調査の継続研究にあたるもので、前調査で出土したトンネル遺構の端部検出と、1999年にJSAにて実施した寺院北のロングトレンチの土層断面の再確認を目的にした調査です。

P1100867.JPG排水を目的にしたラテライト造のトンネル遺構は、周回道路の内側に先端があることが確認されました。端部のレヴェルが現地表面よりかなり深くにあるため、この施設が生きていた時代の周囲の地盤造成状況にさらなる課題が残される結果となりました。

北側のトレンチでは外周壁遺構の下層の掘り込み地業についての確認が主な目的となりました。加えて、外回廊南側で確認されたトンネル遺構が、北側の対称地区にも存在するかどうか確認するための調査も実施しました。

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現在、これらの発掘トレンチの埋め戻し作業を進め、報告書の作成に向かっています(一)。

2011年3月にサンボー・プレイ・クック遺跡群が位置するコンポン・トム州の博物館が開館しました。本事業ではこれまで長年に渡り,博物館の設立にむけて協力をしてきましたが,念願の開館を迎えました。 P1120581.JPG P1120586.JPGサンボー・プレイ・クック遺跡群から出土した石彫作品の展示が中心となっています。破損していたリンテルや彫像等は,今回の展示に向けて接合作業等の修復を施しました。本事業では展示の解説パネルの作成の協力もしました。

13112010_1.JPGオープニングには文化芸術省大臣を始め,多くの出席者にお集まりいただき,盛況な開幕となりました。博物館はプノンペン-シェムリアップ間を結ぶ国道六号線に面しており,今後はサンボー・プレイ・クック遺跡群を訪れる前後にこの博物館を見学する観光客が増えることと期待されます。また,地元の中高の学生は課外授業のサイトとしてこの博物館を利用される予定です。

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なお、サンボー・プレイ・クック遺跡群保全事業は文化財保護芸術研究財団と住友財団からの御支援のもと、カンボジア文化芸術省と協力で進められています。(一)

平成19年より22年にかけて科学研究費補助金 基盤研究(A)にて進められてきたアンコール遺跡における考古学的研究の成果報告書が刊行されました。

内容は以下の通りです。

 

「アンコール遺跡における出土貿易陶磁の様相解明」(研究代表者:山本信夫 早稲田大学理工学研究所准教授)

 

1. 調査の目的・体制・既往調査・各自調査の内容 (山本信夫)

2. 南経蔵と周辺部の調査 (山本信夫 他)

 2.1 南経蔵における発掘調査

 2.2 通廊Cとその下層遺構の発掘調査

3. 考古学と建築学における課題 (下田一太)

 3.1 中央孔より出土した鎮壇具の概要

 3.2 バイヨン寺院の内外回廊の建造過程をめぐる再考察

4. 中央塔の調査 (下田一太 山本信夫 他)

5. 寺院外郭南東部の調査 (コウ・ベット 山本信夫 他)

6. 発掘調査整理基準 - 遺構編 (山本信夫)

7. 鎮壇具の保存処理 (佐藤亜星)

8. 金属製品の文化財科学的な調査 (山口将史 平尾良光 他)

9. 石材と土壌に関する分析方法 (ロバート・マッカーシー)

 

なお、バイヨン寺院における考古学的研究は、引き続き本年度から4年間の研究補助金を得て継続することとなりました。今後はJASA第四フェーズとの密接な関係の中で、特にバイヨン寺院の東側正面における考古学的発掘調査を主眼として進めていきたいと考えています。(一)

韓国のテレビ放送EBSにて、アンコール遺跡を紹介する番組が、4月18日から20日にかけて三夜連続各50分にて放映されました。
この番組は、企画段階よりJASA事業の専門家が協力し、番組の途中ではインタビューなどの場面も織り込まれています。
 
1000人以上のエキストラによる戦闘場面や建設工事の場面はアンコール遺跡を描いた過去のドキュメンタリーの中では最大規模になり、また随所に美しい三次元映像も盛り込まれています。
 
担当者は英語番組、日本語番組など、各国のテレビ局に今後売り込んでいきたいとのこと。日本でも放映されるようになることを楽しみにしています。
 
以下のサイトで、この番組のダイジェストが見られます。
http://home.ebs.co.kr/clink.jsp?client_id=angkor&handle=26

長年アンコール遺跡の研究に取り組んできた早稲田大学教授 内田悦生先生が研究のエッセンスをまとめた書籍を刊行しました。

 

「石が語るアンコール遺跡-岩石学から見た世界遺産」 内田悦生(著)下田一太(コラム)

http://www.amazon.co.jp/%E7%9F%B3%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%81%BA%E8%B7%A1-%E2%80%95%E5%B2%A9%E7%9F%B3%E5%AD%A6%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%BF%E3%81%9F%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%81%BA%E7%94%A3-%E6%97%A9%E7%A8%B2%E7%94%B0%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%AD%A6%E8%A1%93%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E5%86%85%E7%94%B0-%E6%82%A6%E7%94%9F/dp/4657117041

 

アンコール遺跡を形作る石材を対象に研究を行い、そこから建物の造り方や建設年代、そして劣化のメカニズムなど、解明された様々な新事実が集大成されています。

前半では研究の手法を紹介し、後半ではアンコール遺跡の主要な寺院を個別に解説する構成です。

アンコール遺跡の見学をこの本片手に回ってみるのも、マニアックな楽しみとなるでしょう。(一)

先日のプレア・ヴィヘア訪問に引き続き、ダンレック山脈上に位置するタ・ムアン・トム寺院の現状調査を行いました。タ・ムアン・トム寺院はプレア・ヴィヘア以上に衝突の緊張感が高かった遺跡ですが、現在ではそうした緊迫感はだいぶ緩んできているようです。ただし、やはり塹壕や機関銃が未だに据えられており、完全に緊張の糸を解いたわけではないようです。

TMT5.JPG 現在ではカンボジアとタイのどちらからもアクセスすることができ、境内には両国からの観光客が混ざっています。ただし、双方の兵士が訪問客を監視しており、カンボジア側から入場した観光客がタイ側の境界線に近づくと直ぐさま警告され、またその逆も同様です。タイ側からは遠足で中学生が多数訪れ、少し前まで緊張した地区であったとは信じられないような状況です。タイ側からの訪問客を増やそうとするタイ政府の思惑があるのではないかと思われるほどでした。

 TMT1-1.JPG TMT1.JPGタ・ムアン・トム寺院はアンコールからピマイ寺院へと至る王道上、ダンレック山脈を越える要所に位置しています。プレア・ヴィヘア、ニャック・ボアスと並んで、ダンレック山脈上の三大寺院に数えられることもあります。

TMT4.JPG寺院のカンボジア側の麓にはプラサート・チャンという寺院が位置しており、またタイ側にはタ・ムアン・トイ、タ・ムアン等の施設が配置されています。プレア・ヴィヘアのような立派な石階段はありませんが、ここにもダンレック山脈を越えるラテライト造の階段とその途中にはテラス状の遺構が見られます。

TMT3.JPG 

過去の修復工事によってオリジナルの状態が大幅に失われてしまったために、研究の幅が狭まってしまったことが残念なところですが、山上寺院の建築的特徴を色濃く示す重要な遺跡であることは間違いありません。

 

これまでに正確な図面等が作成されたことがないため、今回の調査では伽藍内の各遺構の平面図の作成を行いました。また改めて、伽藍全体の配置測量を実施する予定です。

 

寺院の東方にはタ・クロバイと呼ばれる砂岩造の祠堂がやはりダンレック山脈の尾根上に位置しています。

TMT6.JPG少し前まではやはりここも一触即発の緊張地帯で、カンボジア側からは急な崖を登るロープウェーがあり前線との物資供給などに利用されていましたが、現在は運休しています。代わりに寺院西方からの車両道が建設中で、カンボジア側の領土主張が示されているようです。(一)

TMT7.JPG 

 

2010年8月の調査に引き続き、チャウ・スレイ・ビボール寺院の調査を行いました。この遺跡はアンコールからベン・メアレア寺院への王道の途中にあり、小丘の上に伽藍を配置し、その周囲に周壁と環壕を巡らせています。

 

CV1.JPGこれまでこの寺院は正確な配置図がなかったため、配置測量を中心とした調査を実施しました。不整形の丘の形状を内包するようにして全体が計画されたために、寺院の囲繞施設と内部施設との配置が変則的になっている興味深い構成です。

 

アンコール遺跡から30分でアクセスすることができ、今後観光客が訪れるサイトになるかもしれません。アプサラ機構も発掘調査を実施しており、今後は環壕の貯水整備事業も計画されています。

丘の上からはクーレン山が眺められる気持ちの良いロケーションです。

CV2.JPG加えて、チャウ・スレイ・ビボールのさらに東、王道脇に位置するバンテアイ・アンピル寺院の測量を含む調査も完了しました。

CV3.JPG小規模ではあるものの、彫刻や建物の完成度が高く、他の「施療院」施設の見本となるような遺構です。(一)

バンテアイ・チュマール遺跡はバイヨンと並行して建設・増改築をされた寺院で、バイヨン寺院の解明にあたり、最重要の比較研究対象になります。尊顔付きの塔状の建物の発展過程はこれら両寺院を併せて見ることで一連の流れが確認されますし、また回廊への浮き彫りも表現として類似していながら、題材の取り扱いや、各場面の構成はバンテアイ・チュマールの方が大胆であるなど、いろいろな点で興味が持たれます。

BM1.JPGバイヨンはアンコール遺跡の中で他の関連遺構との関係性は埋没してしまい分かりにくい部分もありますが、バンテアイ・チュマールはその衛星寺院との関係がより明瞭に示されており、寺院相互の配置や宗教的連携を考察する上でも鍵になる可能性があります。

 

遺跡群中央に位置する大型伽藍は崩壊が著しく、平面図を手掛かりに歩いても自分の居所がわからなくなってしまうほどです。

BM2.JPG現在この遺跡ではGlobal Heritage Fundによって修復工事が実施されています。中央部付近では局所的ですが、高く堆積した崩落部材を取り除き、寺院の床面までクリアランスする整備が行われています。伽藍内部の床面がこのように確認されたのは初めてのことで、この作業によって、台座やペディメントの浮き彫りが明らかになりました。バンテアイ・チュマールはバイヨン期の仏教寺院の中では唯一、後世のヒンドゥー宗派による仏教破壊活動を免れた貴重な寺院で、こうした作業によって今後重要な痕跡が見つかる可能性が高いでしょう。

BM3.JPGまた、外回廊の東面でも浮き彫り壁面の再構築が行われています。

BM5.JPGその他、文化芸術省による独自事業として環壕南橋の乳海攪拌の巨像の修復工事も進められています。

BM6.JPGバンテアイ・チュマールはこの中央寺院の周囲に衛星寺院やバライ、水路などが巡らされて構成されており、そうした配置や水利構造は現在研究を進めているベン・メアレア等とも比較対象として重要になっていますが、今回はメボンを除く衛星寺院を訪れました。基本的に内周衛星寺院と外周衛星寺院の二種類に分けられますが、いずれも少しずつ寺院構成や規模が異なっています。完成度は低い中で、尊顔彫刻だけは他の装飾に優先して完成されており、あたかも尊顔を高く掲げるためにこれらの寺院が配置されたようにも見えます。

BM7.JPG都城規模の配置計画分析の可能性を検討していますが、森が深く、測量作業は困難を極めることも予想されるところで、慎重に研究計画が求められそうです。(一)

ユネスコ世界遺産に登録されて以降、カンボジアとタイとの領有権問題が生じていたプレア・ヴィヘア寺院が2010年12月初めにようやく沈静化しました。現在でもまだ外国人観光客の自粛が促されてはいますが、ようやくカンボジア側からは比較的安全に訪問できるようになりつつあります。

PV1.JPGカンボジア側からはダンレック山脈の急な崖を越えなくてはなりませんが、現在は寺院西側の急坂が多数の重機で急ピッチで改修されており、近い将来、より快適に車両でも寺院付近までアクセスすることができるようになりそうです。

また、第五ゴープラへと至る寺院東側の石階段による山道には麓から連続する長大な木道の設置がほぼ完成しています。車で寺院まで入山し、帰りはこの修験道のような木道で下山するというルートが将来的には一般化することが予想されます。

PV5.JPG PV6.JPGタイ側はまだ開いていませんが、寺院入り口付近にはお土産物店が並び始め、タイからの入場を管理する小屋や木道の準備も進められています。

PV2.JPG寺院そのものは、すでにプレア・ヴィヘア機構によって整備が進められ、危険箇所への支保工や木造の階段が設置されつつあります。また、参道脇の石灯籠の修理や、境内の散乱部材の整理なども進められ、寺院内ではこれまでに気づかなかったような痕跡も多数見ることができます。

PV3.JPG PV4.JPGまた、プレア・ヴィヘア機構によって山の麓では考古学的発掘調査なども行われています。

PV7.JPGとはいえ、2年間にわたる衝突の傷跡は生々しく、特に寺院の正面付近、タイとの前線には広範囲に渡り塹壕の痕が残っています。

PV2-2.JPGプレア・ヴィヘアは今後様々な国や機関によって開発・整備・修復されていくことが予想されますが、カンボジアとタイとの平和の象徴となるべく役割をぜひ担って欲しいと思います。

 

日本国政府アンコール遺跡救済チームと早稲田大学・名城大学研究グループは2011年3月より寺院全体の平面測量を始めとする調査を開始する予定です。(一)

西バライの湖底状況を調べるための音波探査を行いました。探査は大阪市立大学 都市地盤構造学研究室の原口強先生が実施しました。また、現在カンボジア留学中、JASA考古班の中松万由美がサポートのためにボートに乗り込みました。

 

アンコール遺跡群には大型かつ複雑な水利施設が残されていますが、中でも巨大な貯水湖は目を引きます。西バライ、東バライ、北バライ、インドラタターカなどの他にも多数の貯水湖が配置されていますが、今でも水を良く湛えており、最大規模を誇るのが東西8km、南北2kmの西バライです。

こうしたバライがなぜいくつも築造されたのか、ということ、またこれらのバライがどのような目的に利用されていたのか、ということについては未だに議論が絶えません。

巨大な人口を支えるための農業用水として造られたが、堆積土によって機能不全となり新たなバライが新設されたというのが、一般的な解釈です。

また、西バライの東側は8世紀ごろの都市址であり、地下に何らかの遺構が埋蔵されている可能性も窺われます。

こうしたいくつかの課題に取り組むために、西バライの湖底調査を行いました。

 

調査はボートに取り付けた音波探査機で湖底の状況を観察・記録していくというものです。借り上げたボートはカンボジア国旗が風を切ってはためきながら力強く進みましたが、途中でガス欠になり漂流するといった事態にも遭遇しました。

 

101031-1.JPG調査測線を正確にコントロールし、また記録するために、GPSで逐一原位置のトラック情報を確認し、また湖底の状況をパソコンのモニターで観察しながら調査は進められました。

 

101031-2.JPG 101031-3.JPGいくつかの興味深い湖底形状が観測されるなど、今後の分析が待たれるところです。(一)

カンボジアの首都プノンペンと一大観光地シェムリアップを結ぶ国道6号線の中間地点に位置するコンポントム州。この国道沿いに州博物館の開設が進められています。

これまで、コンポントム州の文化芸術局内の倉庫やサンボー・プレイ・クック遺跡群の現場倉庫に砂岩製の彫刻を中心とした遺物が保管がされていましたが、それらのいくつかをこの博物館にて展示する予定です。現状の倉庫には、出土遺物・盗掘の危険を回避して運び込まれた遺物・既に盗掘されたものを警察が押収して運び込んだ遺物、等が多数保管されています。

新設される博物館も、規模が極めて小さいために、展示される遺物は数が限られている上、展示計画がないままに、建物の建設工事、さらにはマウントのための台なども設置が完了しています。このように全体計画を得ないままに進められてしまった一連の作業のために、展示物の選定やテーマの設定などが困難な状況になっています。

P1080358.JPGカンボジア各州には、近年こうした新しい博物館が少しずつ建てられるようになってきていますが、展示のためのノウハウが蓄積されるようなことはなく、展示の質が向上しないのが残念なところです。

P1080375.JPGコンポントム州の博物館では、今後、早稲田大学建築史研究室が展示パネルの作成等の支援をすることになりました。展示計画の調整をしながら、展示遺物の内容を掘り下げることができるような解説を加えていきたいと考えています。(一)

本ブログにて9月4日に「コンポンチャム州のクメール遺跡調査 その2」にて紹介したメモット遺跡での破壊活動に幾つかの対策が進められています。

 

関係者に対して遺跡での現状を連絡した後、Radio Free Asiaにてまず報道がありました。外国の報道機関であるため、いろいろな意味で中立的な立場にあるため迅速な対応が可能です。

http://www.rfa.org/khmer/news/old-temple-land-cleared-in-kgcham-09022010053131.html?searchterm=None

 

その後、メモットセンターが遺跡群が分布する地区の住民と特にプランテーションなどの大規模な土地所有者に対してセミナーを行い、こうした遺跡の保護に自主的に取り組むよう指導されました。

http://www.devata.org/2010/09/bulldozers-destroy-priceless-archaeological-site-in-cambodia/

 

現在は、メモット遺跡の法整備に対してカンボジア政府内で検討が進められています。

今回は、最初の連絡から様々な反応が即座におこり、適切な形で対策が講じられることになりました。これは、一つにはメモットセンターという組織が既に様々な蓄積を持ち、またカンボジア政府内に深くコミットした形で位置付けられていたことによるでしょう。他の遺跡においても、保全に対して有効な手だてを図るためには、主要な考古学的サイトに対しては管理組織を充実させ、中央と密接な関係が築かれることが期待されます。(一)

4. Preah Theat Khtom

自然の丘陵地形を造成した高台上に寺院が造営された珍しい構成です。二重のラテライトの周壁に囲繞された中央に煉瓦造祠堂が建っており、入り口前方には後補のラテライト前室が取り付いています。また、内外周壁間の南側前方にも長手平面の小さなラテライト遺構が配置されています。アンコール時代の字体を示す石碑がサイトには放置されていますが、複数の治世者の名前が連なっており、この地域を支配していた地方統治者であると考えられます。煉瓦造の祠堂内部にはマカラの頭をモチーフとしたガーゴイルらしき石製品が残されており、プレ・アンコール期の遺物にも見えますが、確かではありません。

P1070921.JPG周囲は一面の水田で、車を降りてからこのサイトまでは約2kmにわたり、細く滑りやすい畦道を歩いてアクセスすることになります。寺院の東と北には長方形の輪郭を取り囲む土塁が築かれており、溜池であったものと考えられますが、特に北方に南北に長い溜池を設けているのは珍しい構成だといえるでしょう。

DSC04632.JPG

 

5. Banteay Prei Nokor

コンポンチャム州でも最も重要な遺址の一つである、ここバンテアイ・プレイ・ノコールはやや歪んでいるものの一辺約2.5kmの方形の環壕と周壁に囲まれた都城址です。プレ・アンコール期の最盛期にあたる三代に渡る王に仕えた人物の本拠地がインドラプラという都市にあったとされていますが、この都市はインドラプラに比定されることもあります。環壕の内部、やや東側には3基の煉瓦祠堂が残されており、そのうち2基は一つのテラス上に隣接して位置しています。いずれもプレ・アンコール期の建築様式を示しています。やや離れて位置する煉瓦祠堂は壁体の倒壊が著しく緊急の支保工などが求められるところです。この煉瓦祠堂の脇には既に倒壊してマウンドと化した遺構が認められますが、近い将来、この残された祠堂も全壊する危険性があります。ここにはアンコール期の明瞭な痕跡は残されていませんが、ポストアンコール期には戦略的に重要な拠点であった記録が残されており、長く重要な勢力拠点であったことが推測されます。

P1080103.JPG近年、カンボジア政府によって環壕の底がさらわれ、それらの土砂を周壁上に盛るという、行き過ぎとしか思えない整備が行われました。また、煉瓦造祠堂の残るパゴダには立派なヴィハーラが建立され、現在も巨大な涅槃仏が造られているところです。また、文化芸術省より日本の修復隊に対して煉瓦造祠堂の修復工事への協力依頼もされています。聞くところによれば、カンボジアの現首相がこの遺跡の整備に積極的であるようで、歴史上の王にならい、こうした大事業を敢行しているとのこと。現政権の集中と長期化が、不安定な情勢を引き起こさなければ良いのですが。

DSC04665.JPG

6. Preah Theat Toek Chha

今回初めて訪れた遺跡でしたが、コンポンチャムの片田舎にこんなに大型かつ複合的な寺院があることに驚きました。東西に長手の二重の周壁に囲まれた境内には複数の建物の痕跡が認められ、建物の数には見合わないより多くの台座が散乱しています。中央祠堂は煉瓦造で、建物自体はアンコール時代のもののようですが、部分的にはプレ・アンコール期の砂岩材が混入している興味深い造りです。おそらく、前身の遺構を取り壊したか崩落した後に、それらの部材を再利用したものと考えられます。また、中央祠堂の南側に位置するいわゆる「経蔵」と呼ばれている建物には、やはりプレアンコール期の碑文が残されていますが、変わった造りの窓が開口しています。

DSC04689.JPG 寺院の前方には約500m離れて貯水池らしき土塁が築かれていますが、東辺が認められない上に、土塁の内部も起伏に富んでおり、いわゆるバライと呼ばれるものとは異なるのかもしれません。寺院の北方には一年を通じて湧き出すという泉があり、大きな池が水を湛えていました。このような自然の貯水池が隣接して存在することからも、寺院前方に対をなすように配置されたバライの機能は宗教的な意味に特化していたのではないかと推測されるところです。

DSC04725.JPG また、この寺院の北方、自然の池との間には「パレス」と呼ばれる構成の建物が残されています。一般的に参詣のアクセス脇に配置されるこの建物が、池との間にあることは示唆的で、寺院と源泉との密接な関係をよく示していると考えられます。

7. Prasat Kuk Yeay Hom

バイヨン期の砂岩造祠堂で、屋蓋の上方は崩壊が進んでいます。四方の開口部のリンテルは残存しており、いずれも仏教モチーフが破壊を免れています。祠堂の周囲には複数部材を組み合わせた大型の涅槃仏や板状のヨニ座などが散乱し、プレアンコール期の遺物とポストアンコール期の遺物が混在しています。おそらく現存する祠堂の北西に煉瓦造祠堂があったものと考えられますが、完全にマウンドと化しており、痕跡を拾うのは難しい状況です。

寺院は約500mの環壕に囲まれており、さらにその東側にはバライが築かれています。現在でも睡蓮を一面に咲かせた水面を満々と湛えていました。

DSC04764.JPG 

以上が、今回訪れたコンポンチャム州内の遺構の主要なものですが、その他に新石器時代の環壕集落跡であるメモットにも足を伸ばしました。早稲田大学の故古城泰先生もこの地域の研究には力を注がれていました。近年のドイツ隊による研究で、さらに複数のサイトが発見されたようで、今後も踏査や発掘調査が期待されます。

残念なことに、私たちが環状集落跡を訪れたまさにその時に、ブルドーザーとショベルカーによって、歴史的に貴重な痕跡が破壊されつつある現場を目の当たりにしました。環状集落の位置する地区の多くは、ゴムのプランテーションが広がっていますが、プランテーションの効率化を図るために、おそらくこの遺跡の存在に気が付かないままに、悪意無く、この痕跡は削り取られてしまっていました。最低限の保護処置と住民への指導があれば、こうした破壊を免れることができたはずですが、残念ながら行政側の適切な処置が無いままに、遺跡破壊が生じています。

P1080045.JPGこれに類した状況は様々な遺跡で大なり小なり生じていることで、数千におよぶカンボジア国内の貴重な遺跡が少しずつ失われている現実があります。上述のサイトのように、不適切な整備による歴史的価値の遺失も同時に進んでおり、地道にでもなんらかのアクションを起こす必要があることを感じずにはいられません。(一)

8月末から9月初めにかけてコンポン・チャム州のクメール遺跡の岩石学的調査を行いました。

早稲田大学教授の内田悦生先生を中心として、学生の豊内謙太郎と津田幸次郎、建築学専攻の島田麻里子、下田の5名が文化芸術省に所属するビタロン氏による案内のもとに主要な遺跡をまわりました。

 

調査では主に砂岩・ラテライト・煉瓦を対象とし、各建材の化学組成、帯磁率、形状などを寺院の各所で確認し、アンコールの広大な版図内における石材の供給源と寺院の空間的な関係、時代的な建造技術の変遷、各寺院の建造時期や増改築について検討しました。

今回はコンポン・チャム州を調査対象に選定しましたが、同様の調査を今後カンボジアの各州にて順次行っていくことを計画しています。

 

以下に調査で訪れた主要遺跡の概要をお伝えします。

 

1.Vat Nokor Bachey

コンポン・チャム州の中心地に隣接したバイヨン時代の大型寺院です。アンコール地区の仏教寺院と同様に、後世にヒンドゥー寺院に改修された際の改変の痕跡が認められることに加えて、さらにその後に大乗仏教化した際にも大規模な改造の手が加わりました。一般的に後世の仏教化は施工水準が著しく低下しますが、この寺院では比較的高い精度で改造が行われています。中央祠堂の前面には近年に造り付けられた拝殿が配されていますが、壁面に描かれている仏伝図と中央祠堂の破風飾りのモチーフに共通するものが認められるなど、ポストアンコール期の作例が今に伝わっている様子を窺い知ることができます。

また、寺院の前方には大型の貯水池が残されており、他の貯水池ではあまり見られない興味深い取水構造が確認されました。

RIMG1572.JPG2. Kok Preah Theat

メコン川に面した小丘の麓に位置した安山岩の小祠堂です。近年、文化芸術省によって解体再構築修理が行われました。工事の際に付近より別の建物を構成するまとまった建材が出土しており、それらの部材が祠堂の脇に保管されています。プレ・アンコール期の寺院で、クメール建築の中でも、特にインド的な雰囲気を色濃く残しており、最初期の建物であったことが窺われます。基壇や屋根の頂部の形式、そして室内に安置されている台座などは特にクメール建築を見慣れていると違和感のある作例となっています。各部材には複数のほぞや鎹の痕跡が残され、工法の面からも特徴的です。

タケオ州にプノム・ダ遺跡のアシュラム・マハ・ロセイと呼ばれる小祠堂があり、この寺院もまた安山岩でできていますが、ここメコン川の付近に元々建立されたものが移築されたという説もあります。双方共にプレ・アンコール期の寺院ですし、こうした説もあながち否定できないかもしれません。

DSC04501.JPG

3. Han Chey

前述のコック・プレア・ティエットの小丘の頂にある遺跡です。煉瓦の祠堂と砂岩製の箱形建物が良く残されています。いずれもサンボー・プレイ・クック遺跡の細部装飾と極めて類似した彫刻の作風であり、個人的には同一の彫刻師の作品ではないかと思われる文様が多々認められます。と同時に、ワット・プーやタラボリバット遺跡に認められるモチーフも加わっており、両地区の移行期に造営されたことも窺われます。建築的に興味深いのは箱形の建物で、サンボー・プレイ・クック遺跡のN17遺構に類似しています。N17遺構は過去の発掘調査によって、煉瓦の床面が周囲に確認されており、木造の覆屋があった可能性が指摘されていますので、ここでも同様に入れ子状の建物の内部に納められていた建物であったことが推測されます。周囲には一回り大型の扉材なども残されていますので、煉瓦造の祠堂であったのかもしれません。こうした板状石材を細工して組み合わせた遺構としては、ストゥントレンのメコン川西岸の民家の敷地内に全壊した状態で確認したことがありますが、貴重な残存例であることは間違いないでしょう。

 

DSC04542.JPGしかし、これらの寺院が残されているパゴダはやたらに奇怪なオブジェが沢山残されており・・・。ハンチェイ・リゾートと銘打ってありましたが、メコン川が一望される雄大な風景の中に築かれた、もはやこの世のユートピアなのかもしれません。

DSC04552.JPG  

続く。(一)

過去にもベン・メアレア遺跡での調査について紹介しましたが、8月より遺跡群全域の測量調査を再開し、一ヶ月間ほど継続する予定です。

 

寺院中心部の測量については昨年からの継続調査で今回の調査で全てを完了することを目指しています。GPSとトータルステーションを利用した機械での測量と、地道に細部を採寸していく作業とを並行して進めています。また、ベン・メアレア寺院の周辺に位置する小規模な寺院もアプサラ機構による清掃や整備が進み、より細部にいたる調査ができるようになってきました。周辺のバライや土手などの土木遺構についても調査が求められるところですが、観光客が訪れる中心部を除いては未だ地雷が多く残存しており、慎重な踏査を強いられています。今年6月よりCMACによる地雷の撤去作業が再開されましたが、まだまだ主要な地区のみでも完全な撤去までは長い道のりです。

そうした中でも、遺跡群の周囲には土器や瓦などが集積した地域が認められており、当時の周辺環境を検討する上で貴重な痕跡となっています。今回の調査では、そうした散乱遺物の収集や小規模な発掘調査を併せて行う予定です。(一)

アンコール遺跡群の東側にやや離れた小丘の上にチャウ・スレイ・ビボール寺院は位置しています。東側に延びて、最終的にはラオスのワット・プーとコンポン・スヴァイのプレア・カーン寺院へと至る王道の中では最も王都アンコール遺跡に隣接して位置する複合寺院です。この寺院の建築学・測量調査を名城大学・早稲田大学・JASAの共同研究として開始しました。

 

この寺院では、今年に入ってからアプサラ機構が発掘調査を実施しました。丘の周囲を巡る環壕とその環壕を渡る陸道の輪郭を検出することが主要な目的でした。ただ、アンコール遺跡群の中でも重要な遺跡でありながら、これまでにこの寺院の精確な図面が作成されたことがなく、まとまった調査はされていないため、この度、伽藍全体の平面測量と建築学的特徴の検出を目的とした調査を開始しました。

これまでにJSAの建築学研究で取り組んできた、寺院の設計方法の分析にあたって、丘の上に残された回廊に囲繞された伽藍は、比較考察の上で適当な規模の遺跡であり、また破損が著しいとはいうものの、過去に修復などの手が付けられていないことから、オリジナルの形状や痕跡を今でも確認することができる研究対象としては望ましい姿で残された遺跡です。

また、丘の一部は寺院の配置のために造成されていることも推測され、地形測量から明瞭な手掛かりが得られることも期待されます。全体で10日間ほどの調査が予定されています。(一)

今月半ばより、サンボー・プレイ・クック遺跡群で考古学的な発掘調査を予定しています。

この調査期間中には、プノンペン芸術大学とメコン大学の建築学部・考古学部の学生への研修事業をあわせて実施する予定で、その研修に参加する学生の面接試験を各大学で行いました。

 

王立プノンペン芸術大学はカンボジアで唯一の考古学部を有する大学です。アンコール遺跡をはじめとして、カンボジア国内の遺跡保存や研究の専門家を輩出してきました。クメールルージュとその後の内乱が沈静化してから再開されたこの大学では、今年で22期生になっています。JSAの専門家の大半もこの大学の出身者です。

1990年代後半からの10年ほどは、プノンペン芸術大学へは様々な国際的支援があり、10年ほど前はクメール研究の国際的な大家が教員陣としてずらりと揃っていましたが、ここ数年はそうした支援が途切れ、外国人教員は皆無、そしてカンボジア人教員も十分な体制が整っているとはいえない状況に陥っています。

遺跡の発掘現場や修復工事を通じての研修事業も、かつては様々な国際チームが行っていましたが、最近ではそうしたプログラムは低調で、学生はなかなか生の現場を体験する機会がありません。

早稲田大学によるサンボー・プレイ・クック遺跡群の事業においても毎年研修事業を継続していますが、多数の研修参加者を受け入れることができず、面接ではかなり優秀でやる気に満ちた学生の多くから選択しなくてはならない苦々しい状況があります。JSAでも2005年まではこうした研修事業を年に二回実施してきましたが、現在は中断しています。ぜひ来年からの新たな事業フェーズでは再開できたらと考えています。(一)

アンコール遺跡の中心に位置する王都「アンコール・トム」。バイヨンやバプーオン、象のテラスやライ王のテラスなど、観光客も必ず訪れる最重要地区ですが、これらの重要な寺院群を包括しているアンコール・トムそのものについてはほとんど知られていません。

 

これはなにも観光客に限ったことではありません。研究者にとっても常に身近な存在であるにもかかわらず、ほとんど関心が払われずにきました。その理由は、一辺3キロの環壕と高い周壁に囲まれたこの都城が、現在深いジャングルに呑み込まれて、足を踏み入れるのが極めて困難であることによります。このジャングルのおかげで、王都アンコール・トムは今でも聖域としてほとんど調査の手が入らずに残されているのです。

 

そんな中で、ほぼ唯一この王都を長年研究しているEFEOのゴシエ博士は、ここを「インドの宇宙観に基づくユートピア」と表現しています。インド的な理想の世界観がここに具現された痕跡が残されているというのです。博士の描くアンコール・トムの地図には、日本の条坊制の古代都市のようにグリッドが切られています。そして無数の溜池。さらには約200の遺構、あるいは遺物の集積地が記されています。

 

日本では古代都市といえば方形の輪郭を想定して一般的ですが、アンコールでは方形の外郭構造を有する都市はさほど多くはありません。ワット・プーのシュレシュタプラ、バンテアイ・プレイ・ノコール、サンボー・プレイ・クック、ピマイ、ムアン・シン、コンポン・スヴァイのプレア・カーン、そしてここアンコール・トムほどです。もちろん、大型の寺院には都市的な機能が内包されていたかもしれませんが、王宮や官衙施設を有しているような施設ではなかったはずです。こうした都市の基本構造については、研究がほとんど進んでいませんが、たいへん興味深い課題で、かつ古代都市がほとんど手つかずで残されています。

 

100503_1.JPG連日の修復工事で訪れているバイヨンから少し足を伸ばしてアンコール・トムの森の中に足を踏み入れてみると、雨季には来訪者を断固として拒む鬱蒼としたジャングルに阻まれますが、乾季も終わりの頃になると、なんとか回ってみることができるようになります。ゴシエ博士が切り拓いた約100mの間隔で碁盤目状に分布する小道が必然と踏査路となってきます。

 

まだ数度の踏査を行ったに過ぎませんが、高さ10m以上もの土塁が続いていたり、陶磁器が散乱していたり、全容が不明の倒壊した遺構が分布していたりと、なんとも興味深い都市址です。本気でこの調査にはまったら大変なことになるでしょうけど、頭と体のトレーニングにこれ以上魅力的なサイトはありません。時間の余裕がある時に、もう少し森の中に消えたいと思っています。(一)

5月2日、アンコール・トムの中央の王宮前広場で王宮の年中行事の一つである「鍬入れの儀式(Royal Ploughing Ceremony)」が行われました。

 

この儀式は雨季の開始時、田植えが始まる前に、今年の耕作を占うものです。番いの牛が7つの穀物やお酒などから選んで食したものによって農作物の豊作が占われます。(ちなみに今年はトウモロコシと小麦が食されました)

近年、儀式はプノンペンの博物館前の広場で行われていました。王宮の北東で行われる決まりになっているからです。それが、王宮の催す行事としては60年ぶりにアンコール・トム内の広場で行われたのです。王の威光とカンボジアの伝統行事を国内外に広く示すために、一大観光地となったアンコールで行うことが目的で、来年以降もここアンコール・トムで行うか、あるいは各州にて持ち回りで実施されるようです。

 

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100502_2.JPG象のテラスの上には国王を中心に要人が席を並べるための仮設の建物が造られ、数万人の国内客が見学に訪れ、王宮前広場は埋め尽くされました。この広場が過去のアンコール時代にどのように利用されたのかは定かではありませんが、往時の栄華が再びここに再現されたかのようなひとときでした。(一)

七世紀に築造された古代クメール都市「サンボー・プレイ・クック遺跡群」はセン川の氾濫原の西側の高台の縁に主要な宗教施設群が位置しています。この選地の問題を巡り,地形学的なアプローチより研究が進められています。今回は,早稲田大学久保純子教授,東京大学須貝俊彦教授,そして東京大学博士課程南雲直子女史によってこの氾濫原にてボーリング調査が行われました。

 

 

100328_1.jpg調査にあたっては,カンボジア工業資源省地質局からの協力を得ました。プノンペンから運ばれてきたボーリング車によって,約10mのボーリングを三カ所で実施しました。ボーリングはベテランのスタッフにより順調に進められ,予定通り作業を完了することができました。

今後はサンプリングされた試料の分析が進められる予定です。(一)

 

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*本調査は日本学術振興会科学研究費助成研究(「古代クメール都市の立地条件と生産基盤復元に関する地形学的アプローチ」(研究代表:久保純子)」による研究の一部です。

車やバイクのクラクションと排気ガスに溢れた喧噪の都市「プノンペン」の中心で,唯一静けさを保っているのが,メコン川の畔に位置する王宮です。特に王宮の裏側,観光客が入ることができない国王の居住区はまさに別世界。巨木が点在し,緑豊かな敷地が広がっています。

 

さて,この王宮内で一際異彩を放っているのが,ナポレオン三世に寄贈されたという瀟洒な建物です。実はこの建物,老朽化が進み,各部の損傷が著しいため,3ヶ月前から高いフェンスが周囲に張られて立ち入り禁止となっています。宮内庁からの依頼で,この度建物の視察に訪れましたが,床面の不同沈下,仕上げ材の剥落,天井の崩落,各所鉄筋部の爆裂破損,ガラス窓の割れ,木部の劣化,屋根瓦の崩落など,かなりシビアな状況に至っていることが確認されました。

 

100326_1.jpg 100326_2.jpg 100326_3.JPG宮内庁では建物の保存修復工事の検討が開始されていますが,王宮内でもきわめて重要な歴史的文化財であるため、海外の技術支援も視野に入れて慎重に保存修復の検討を進めたいということです。(一)

ベン・メアレア遺跡及び周辺遺構の調査を2010年2月下旬から2010年3月中旬にかけて行いました。

 

今回の重要な課題の一つはベン・メアレア寺院の測量にありました。この調査は昨年度から行われている測量の継続調査で、今回は主に第一回廊及び第二回廊の細部形状の採寸をコンベックスや曲尺を用いて行いました。今回の調査によって崩壊の激しい中央祠堂部や同じく崩壊が激しい一部の建物の基壇部を除く箇所の採寸を終えました。

次回の調査では、トータル・ステーションを用いた第一回廊及び第二回廊周辺の測量調査や崩壊の激しい箇所についてのより詳細な調査を中心に行っていく予定です。

 

また、ベン・メアレア周辺の遺構についての調査も行いました。

ベン・メアレア周辺には、ベン・メアレア東側に広がるバライと呼ばれる貯水池や、回廊の四方に異なるタイプの入口を持つクメール建築ではかなり特異な寺院であるPr.Chrei、ピラミッドとテラスが併設している建物群が周囲より一段高い位置に建てられているPr.Kong Pluk、一般的に『施療院』と呼ばれるタイプの寺院であるPr.Don Chan、また同じく一般的に『宿駅』と呼ばれるタイプの寺院であるPr.Kansaeng、そしてバライの中心に位置しているPr.Phyと、ベン・メアレア以外にも興味深い遺構がたくさん存在してます。

そこで今回は、雨季には調査困難であるこれら5つの遺構とベン・メアレア東側に存在するバライの精査を行いました。

この調査ではまずこれら5つの施設の正確な位置情報及び形状を得るために、GPSを用いて高精度な基準点を作成し、さらにそこからトータル・ステーションを用いて建物の各部を計測しました。また建物の細部形状はコンベックスや曲尺を用いて手作業で採寸しました。

さらに、遺構に残存するリンテルやペディメント等の各部の装飾を写真で記録しました。

バライについても、一部地形測量を行いました。

今後は今回の調査で得られたデータを用いて、EFEOによって作成された既存のベン・メアレア遺構の周辺図や周辺遺構の平面図及びインベントリーの更新を行っていく予定です。(石塚)

 

*本研究は日本政府文部科学省科学研究費補助金による助成研究「クメール帝国地方拠点の都市遺跡と寺院遺構に関する研究(研究代表者 溝口明則)」によるものです。

6:00 起床

6:40 ゲストハウス チェックアウト 市場にて朝食

7:30 チェアム・クサン発

9:25 クーレン(Kulen)村着

11:20 プレイヴェイン(Prey Vein)村着

11:40-13:00 Pr. Choan Sram調査

14.JPG

14 (67).jpg13:00-13:30 村での聞き込み

スラヤンを経由してシェムリアップへ

 

まだチェアム・クサン周辺にいくらかの寺院があるようですが、今回の調査で是非とも訪れておきたかったPhnom Sandak寺院に向かうことにしました。途中、クーレン村までは整備された道が続きましたが、そこからプレイヴェイン村が悪路。20kmほどの距離に2時間ほどを要しました。

プレイヴェイン村は小さな村で75世帯ほどがまとまっています。この村から10kmほど北西に離れた地点の山中に目的地Phnom Sandakは位置しています。と、ここで村人に聞くところ、この先道がひどくなり山の麓まで1時間半、さらに30分ほどの登坂でようやく寺院に到着することができるとのこと。時間を計算すると、ちょっと今日中に調査するのは難しく、村に宿泊することもできなそうなので、この遺跡の調査にはそれなりの準備と装備が必要なことが判明しました。

そこで、今回の調査では断念し、代わりに村のすぐ脇に位置するPr. Choan Sram寺院を少しゆっくり調査することにしました。

 

この寺院、アンコール遺跡の東メボンを一回り小さくしたような構成で、こうした地方にある遺跡としてはかなり大規模な施設です。煉瓦造祠堂5基がピラミッド型の段台上に配され、その周囲には長手のラテライト造の建物が巡らされます。さらにそれら全体が周壁で囲繞され、その周囲にはかなり大型の溜池も築造されています。地方のかなりの有力者が築いた寺院だったように思われます。コーケー遺跡からも15キロほどで、チョックガルギャーとの関連の上で考えた方が良いのかもしれません。この寺院とコーケー遺跡の間にも複数の寺院が分布しています。

 

プレア・ヴィヘア州内にはまだまだ大型の重要遺跡が複数残されていますが、今回の調査はこれでひとまず終了とすることにしました。

今回の調査により、プレア・ヴィヘア週内の道路事情を把握することができ、調査地区の優先順位なども検討できたため、今後の調査の見通しを得ることができました。ただ、それと同時に、途方もない数の遺跡が、まだまだ不十分な調査のままに取り残されており、クメール遺跡の全体像のごく一端をようやくかじっているような段階であることを改めて実感させられました。

また近いうちに継続調査を再開する予定です。(一)

 

*本研究は日本政府文部科学省科学研究費補助金による助成研究「クメール帝国地方拠点の都市遺跡と寺院遺構に関する研究(研究代表者 溝口明則)」によるものです。

6:00 起床

6:30 ゲストハウス発 朝食

7:15 チョアム・クサン発 途中昨日と同じ村長を案内にお願いしてピックアップする

8:10-8:40 Pr. Anuon(Pr. Trapeang Anuon)寺院

09.JPG9:00-10:00 Pr. Trapeang Thnal(Trapeang Thnal Chhouk)寺院

10.JPG10:30-11:40 Pr Svay Thom寺院

11 (21).jpgこの先にPr. Kang Hat寺院があるが,悪路のために引き返す

12:20-12:40 Pr. Chhaeh寺院

12 (10).jpg13:15 いったんゲストハウスに戻り小休止

14:50 バイクにて再出発 Pr. Thnal Svay寺院を目指すが,全く道が違うことが分かり一度村に戻る

16:30 村から再出発

17:30-18:10 Pr. Thnal Svay寺院

13 (27).jpg19:20 ゲストハウス着 

 

三日目の午前中は、昨日足を伸ばしたPr. Khnaへの道の脇に位置する寺院を訪れることに。特にPr. Trapeang Thnal寺院とPr Svay Thom寺院は周壁内に複数の祠堂を囲む中規模寺院で、興味深い遺跡でした。

午後は町の北方、Pr. Thnal Svay寺院の調査に向かいました。悪路とのことから、バイクで向かいましたが、目的としていた寺院とは異なるChau Kom MunとPr. Chau Kornhon寺院に向かってしまったことに加えて、これらの寺院にも到達できず、結局1時間半ほどをロスし、再び町に戻ってくることに。再度別のルートからPr. Thnal Svayを目指し、1時間ほどで到着することができました。図面だけ見ていると、一風変わった平面構成のために、その姿を想像することが困難でしたが、訪れてみると二基のゴープラが縦深する構成であることが分かりました。ただ、既存の図面とはやや異なっているようで、修正を要するところでした。境内は藪に覆われており、見通しが効かない上、建物の各部がひどく破損しているため、本格的な調査のためには、まずは全面的な草刈りが必要となりそうです。クメール建築の多様性と独創性を改めて実感する寺院でした。

 

帰路は前日と同様に、再び漆黒の闇の中を疾走することに。砂ぼこりにまみれてようやく町にたどり着きました。(一)

5:30 起床

6:30 ゲストハウス発 市場にて朝食など

7:30 チェアム・クサン発

8:15 目的地途中の村にて案内を依頼する(Chhaeh村の村長Chhat氏)

8:45-9:05 Trapeang Thnal Chhouk寺院

03 (4).jpg9:15 王道跡 もう一つ別の寺院を探すも見つからず

04 (1).jpg

10:10-10:50 Brolay Ampil (Trapeang Ampil)寺院

05.JPG11:15-11:50 So Mab (Ta Ros)寺院

06.JPG12:55-13:00 Pr. Svay Tout (Thnal Svay)寺院

07 (2).jpg13:30 Don Chroam寺院に向かうも途中悪路に阻まれ断念,引き返す

16:20-17:20 Pr. Khna寺院

08 (65).jpg 08.JPG

08 (97).jpg19:30 チェアム・クサン着

 

二日目の目玉は何と言ってもPr. Khna寺院。チェアム・クサンからの直線距離は28kmしかないものの,ひどい悪路を2時間以上も行く。途中,倒木や川越にて何度か断念しそうになるが,なんとか到達した。しかし,車は傷だらけで,帰路は途中から真っ暗闇を進むことに。

オフロードバイクなら1時間半くらいで訪れることができそうで,もしももう一度行かねばならくなったら,バイクで行きたい。

寺院はKrala Peas村のはずれに位置しており,寺院の周辺には大型の溜池や土手跡が複数残されている。土手は高さ4~5mほどで,航空写真や衛星写真でもいくつかは認知される。

寺院は煉瓦造祠堂と砂岩祠堂とが混在しており,祠堂の形式もヴァラエティーに富んでいる。中央塔にはバンテアイ・スレイ様式のデヴァター像が彫刻されている一方で,プレア・コー様式の経蔵やリンテルがあったりと,長期にわたり増改築がほどこされたようにも見える。ただし,アンコール遺跡から遠く離れたこの地にあって,中央の様式編年は必ずしも有効であるか疑わしく,地方色の濃い独特の様式であったと考えることもできるだろう。

この寺院からほんの数キロ南方には別に二つの遺跡があることが分かっていたが,残念ながら時間切れで訪れることができなかった。

 

しかし,この日はひどく暑かった。4名で25リットルの水がなくなったので,一人6リットルを飲んだことになる。。。(一)

2008年,カンボジア第二のユネスコ世界遺産としてプレア・ヴィヘア寺院が登録されました。それ以降,この寺院の所属をめぐってカンボジアとタイとの間で国境問題が生じ,軍事的な緊張関係が続いています。

このプレア・ヴィヘア寺院が位置するプレア・ヴィヘア州には,その他にも多数のクメール遺跡が散在しており,そのいくらかは比較的規模が大きなものです。プレア・ヴィヘア寺院のアンコール帝国における地方拠点としての性格を理解する上で,それらの周辺遺跡を丹念に調査することは重要な意義をもっていると考えられます。

1930年代にフランス人考古学者アンリ・パルマンティエは「クメールの古典芸術」と題する文献で,カンボジア東北地区の寺院を多数紹介しています。彼は,アンコール遺跡を中心としてカンボジアを四象限に分けて,それぞれの地区を一冊の書物としてまとめることを計画していましたが,残念ながら第一巻となる東北地区の遺跡を整理したところで研究生涯の幕を閉じました。

しかしながら,カンボジアを中心に東南アジア・南アジアの古建築を網羅的に調査したこの考古学者をもってして,その第一巻にこの東北地区が選ばれたのは,この地区が最も重要な遺跡が集中していると判断されたためで,それだけにこのカンボジア東北地区は注目される地域だといえるでしょう。

 

今回は,調査日程がきわめて限られていることもあり,プレアヴィヘア州でもチョアム・クサン(Cham Ksan)町から足を伸ばすことができる範囲での調査を行いました。調査は,ビタロン(文化芸術省),ロバート(JASA),石塚(早稲田大学学生),下田の4名にて行いました。

 

初日の行程は以下の通り

 7:00 シェムリアップ発 アンロン・ヴェン経由にて

11:30 チェアム・クサン着 (途中CMACの事務所2カ所にて情報収集)

12:30 昼食後 チェアム・クサン発 近くの村での聞き込み・車と徒歩50分を経て 

14:20 Neak Buos寺院に着 3時間遺跡内の調査

17:20 Neak Buos発

18:10 チェアム・クサン着 ゲストハウス泊

 

シェムリアップからアンロン・ヴェンまでは舗装路で,その後のプレア・ヴィヘア寺院への分岐点までの道は整備中ながらも80キロくらいは出せる道が続きます。分岐点からチョアム・クサンまでも現在整備中で,やや悪路になり土煙を巻き上げての疾走となりますが,比較的良好な道で,さほど苦労することなくチェアム・クサンまでは訪れることができます。

01.JPGチェアム・クサンには見た限り2軒のゲストハウスがあり,田舎町にしては清潔で居心地の良いもので,また食事どころも多少はありますので(しかし全日同じ食堂で毎晩〈火山〉を食しました・・・),それほど大がかりな装備は必要ありません。

 

今日訪れた「Neak Buos寺院」は,この地区でも最も大きな複合寺院です。比較的良好な状態で保存されており、最近では文化芸術局の管理によって数名の地元住民が草刈りなどを開始しました。ダンレック山脈の南の麓の傾斜地にほぼ南面するように立地しています。

 

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01 (107).jpg七世紀中葉の様式のリンテルも認められるため,長期間にわたって維持され増築されたものと思われます。寺院前方には大きな溜池が配され,参道沿いにはいわゆる〈宮殿〉や〈施療院〉と呼ばれている施設があります。今回は地雷の危険があり,訪れることができませんでしたが,境内の背後,山の中腹にも煉瓦造祠堂が配されているようで,一連の寺院施設であると考えられます。(一)

コンポン・トム州,サンボー・プレイ・クック遺跡群の修復工事の資機材支援が,日本国政府とカンボジア政府合意のもとで決定されました。2010年1月22日には、その支援事業となる「The Procurement of equipment and material for restoration works of Sambor Prei Kuk monuments」の開始式が遺跡内で執り行われました。

 

サンボー・プレイ・クック遺跡群では1998年より早稲田大学建築史研究室(代表:中川武)により,研究事業が開始され,2001年からはカンボジア文化芸術省と共同で,「サンボー・プレイ・クック遺跡群保全事業」を継続し,遺跡群の保存・修復・文化開発に取り組んでいます。重要な保存活動としては,地元住民約15名からなるチームによって,過去10年にわたり寺院内の草刈り・危険な樹木の伐採・苑路の整備・支保工の設置を続けている他,最近では寺院の煉瓦造祠堂の室内にて破壊された台座の修理工事を行っています。

 

遺跡群内には比較的良好な状態で保存されている約60基の煉瓦造の祠堂があります。7世紀に建立された寺院として,東南アジアでこれだけまとまって保存されている遺跡は他に例がなく,歴史的価値は計り知れないものがあります。

煉瓦造の祠堂の上の草刈りは,各建物に対して年に二回は行っていますが,雨季には一ヶ月で50cm以上も草が伸びるため,このままでは草刈りを中心としたメンテナンスは永続的な仕事が求められます。また,倒壊の危険が高い建物の各所には支保工の設置も行っていますが,それでも部分的な崩壊が生じることがあります。2005年の記録的な豪雨の折りには,プラサート・イエイ・ポアン寺院内のマンダパと呼ばれている煉瓦造の祠堂が半壊する事態が起きました。これによって,祠堂内に安置されていた天蓋付の台座がひどく破損しました。この台座はプレ・アンコール期の彫刻作品の中でも最も重要な作品の一つであっただけに,その損害は甚大です。

 

こうした状況にあって,煉瓦造祠堂のより本格的な修復工事が強く望まれていました。修復工事により,寺院倒壊の危険性を確実に減らすことができ,また煉瓦積みの隙間に根付く草が少なくなるために,各建物に要するメンテナンスの仕事が軽減されるため,より多くの遺構をメンテナンスの対象にできるようになります。

 

2009年にカンボジア文化芸術省から日本政府へ申請された修復資機材の支援要求が受理されるに至り,修復工事に必要な足場・単管・発電機・空気圧搾機・煉瓦や石材加工のための各種機材と車両,そして,煉瓦・砂・石灰・石材・接着剤・セメントなどの資材の調達が可能となりました。

 

既に資機材の一部が調達され,プラサート・サンボー寺院の中央祠堂と中央テラスの修復工事が開始されています。修復工事のスタッフの人件費や,車両や発電機などの燃料代,各種消耗品の購入費,そして工事中も継続しなければならないメンテナンス作業のための予算は,「文化財保護研究助成振興財団」と「住友財団」からの御支援によって進められています。

 

1月22日には,文化芸術省,アンコール保全事務所,州政府,地元住民,高校生など計200名の参加者を招き,プラサート・サンボー寺院の境内にて修復工事の開始式を行いました。(一)

2010年1月19日,プノンペン,文化芸術省にて「The Seminar on Recent Research of Archaeology Sector in Cambodia(カンボジアにおける最近の考古学研究に関するセミナー)」が開催されました。

 

カンボジア国内の遺跡は,シェムリアップのアンコール遺跡群とコー・ケー遺跡群がアプサラ機構によって,また2008年に世界遺産に登録されたプレア・ヴィヘア寺院はプレア・ヴィヘア機構によって管轄されていますが,それ以外の全ての文化遺産は文化芸術省の管理下にあります。今回は文化芸術省の管轄にある遺跡において現在進められている事業のうち,特に重要な以下の計11事業より報告がありました。

 

1.  サンボー・プレイ・クック遺跡群の研究・保全事業 早稲田大学

2.  カルダモン山脈における埋葬壺の研究 シドニー大学

3.  Sre Ampil遺跡の研究事業 カンボジア王立アカデミー

4.  バンテアイ・チュマール寺院の保全事業 Global Heritage Fund

5.  王道の研究事業 アプサラ機構

6.  La-ang Spean洞窟の研究事業

7.  カンボジア国内の遺跡目録化事業 フランス極東学院

8.  Phum Snay遺跡の研究事業 国際日本文化研究センター

9.  Prohear地区の研究事業 文化芸術省

10.  メコン下流域の考古学的研究事業 ハワイ大学

11.   コンポン・スヴァイのプレア・カーン遺跡群の研究事業 シドニー大学

 

カンボジア国内の研究事業を一同に介してのセミナーは今回が初めてでしたが,今後は定期的に実施することが文化芸術省より提案されました。今後はこうしたセミナーの結果を文書として記録・公開していくことが望まれます。(一)

コー・ケー遺跡群の宗教施設群の中央に位置する約1200*600mの大きさの貯水池の調査を行っています。

アンコール遺跡におけるバライの存在は、農業用水や生活用水を確保するために重要な施設であった可能性がありますが、これまでの研究では未だに定かではない点が少なからずあり、その築造目的については明らかになってはいません。宗教施設と密接な関連を示していますので、実用的な目的に加えて、宗教的にも重要な意味があったことは間違いありません。

コー・ケー遺跡群でも寺院の配置とこの貯水池ラハルは一つの計画性を共有していたものと考えられ、その精確な形状や構造を把握・記録するために地形測量や踏査を行っています。また、貯水池の取水・排水構造などを調査しています。

これまでの調査で、ラハルではアンコール遺跡のバライに一般的な中央の施設が存在しないことが明らかになりました。これについては他国チームの地下探査によっても最近確認されました。ここでは認められない中央施設の代わりに、バライの軸線上に象徴的な遺構が配されていることが明らかになりつつあり、このバライに特徴的な計画性が推察されています。

バライに関する研究は、コー・ケー遺跡群以外でも通観すべき課題ですが、ベンメアレア寺院の東方のバライでも今後より本格的な調査を行っていきたいと考えています。すでにこちらのバライでは、最近の調査により興味深い特徴が確認されました。(一)

2009年12月より、2010年1月はじめにかけて、ベンメアレア遺跡の測量調査が進められています。この測量は同年9月に実施された測量の継続調査にあたるもので、今回はさらに回廊を中心に作業が行われました。

高精度なGPSによる基準点から、トータルステーションで機械点を遺跡内に周回させ、そこから建物の各部を計測します。また、建物の細部形状はコンベックスや曲尺を用いて手作業で採寸します。この測量結果をもとに、寺院の設計方法を解明することが目的です。

寺院各所はひどく崩壊しているため、想像力を働かせながら、建設当時の形状を復元しながら測量箇所を決定していきます。足場が悪く、複雑な平面形状の寺院の測量は大変な労力を要します。(一)

2009年の年末より王都アンコールの聖山クーレンの遺跡調査を行いました。

クーレン山はマヘンドラパルヴァタと当時や呼ばれており、神の世界の聖山に見立てられていた山です。802年にアンコール王朝の太祖ジャヤヴァルマン二世は、この山中で自身は「諸王の中の王」であることを宣言し、土着の精霊信仰とヒンドゥー教の双方を取り込み、自身を神格化しました。

 

クーレン山は、東西に長く延びており、この山中を貫通するように川が流れており、周囲に尾根が巡ります。つまり、山の中心部に入っていくと、周囲を山に囲われた高地にいるような、そんな不思議な地形です。この山中に、ジャヤヴァルマン二世は王都を築いたと言われていますが、たしかに、ここは一つの閉じた世界を完結させることができそうです。

 

100101_1.JPG山上にありながら、湧き水が豊富で、年中、水に欠くことはありません。川を堰き止めたダムの痕跡もいたるところに認められます。今でも、そうしたダムの一部は修理されながら使用され、麓の村に山の上から水を供給することがあるほどです。

 

過去の調査によって、クーレン山中では60の考古学的なサイトが発見されています。また、昨年からは三カ年研究事業であるPhnom Kulen Archaeological Programがフランスの研究グループによって開始され、年に5サイトのペースでクリアランス、発掘調査、遺構の補強が進められ、また山中の生活改善のための道路や橋の整備などの活動も行われています。

こうした中で、今回の調査では煉瓦造の祠堂や、岩盤への彫刻など、計35サイトを確認して回りました。それぞれのサイトは特徴的なロケーションの中に配置されています。立地そのものが醸し出している畏敬あるいは畏怖の力を引き立てるように、様式に従いながらも独創的な解釈にもとづく施設が配置されています。

 

100101_3.JPG山中の多くは深い森に阻まれて、自由な踏査ができませんが、山の地形をダイナミックに活かした自閉的な都の世界を復元すべく研究が将来的に進められていくことが期待されるところです。

 

100101_2.JPG(一)

雨季ですので,大したことはできないのですが,ベンメアレア寺院の環壕とその東側のバライの調査を少しだけ行いました。

 

観光客は一般的にベンメアレアの南側の参道からアクセスします。ベンメアレアの環壕の南辺は水をたたえ,ハスが一面に咲き誇り,実に美しい入り口となっています。

この反対側,北側の環壕の痕跡は不明瞭です。ベンメアレア川が西から東へとメアンダリングしながら流れており,これが環壕の代わりをなしているようでもありますが,詳細は今のところ不明です。また,観光客で賑わう南門と打ってかわった景色を北門では見ることができます。こちらは門と最外郭の参道とがこのベンメアレア川によって分断されていますが,雨が降ろうものなら,砂岩の露頭上を激しく水が流れます。地元の人たちは良くここで水遊びをしているようで,近づくと甲高い子供達の声が聞こえてきます。

090928-1.JPG 

南辺の環壕は,その西端付近がもっとも低いようで,そこから南方へと環壕の高さを水位が超えると流水が生じます。その付近に,ラテライト列や砂岩材が散乱しており,もしかしたら南側へと水を抜くための水路があったことも推測されるところです。

一方,前述のように,北辺は東へと水が流れています。また,東辺はその北側においては環壕の存在は不確かですが,北へと水が流れていることは確かです。

 

090928-2.JPG 

このように,ベンメアレアの敷地はある一方向に傾斜しているわけではなく,周囲から微妙に高い土地に位置しているようです。

 

環壕を横断している参道はラテライト造ですが,東門に確認される限りでは,参道下は迫り出し式で積み上げられており,少なくとも,元々は水が参道の下を流れるようになっていたようです(現状では,西門では水が流れている形跡はありません)。そうしたことから,おそらく自然流を利用した北辺の他の三辺でも環壕は水の流れがあったものと考えられます。しかし,不思議なのは,この環壕の水がどこからやってくるのか,ということです。

090928-3.JPG 

この問題はバライにも同様です。

バライはその西辺に大型のテラスを備えており,また南側と東側には付属の寺院施設を配しています。中央はまだ確認できていませんが,既往の文献によれば,プラサート・プティと呼ばれる遺構があるとされています。四方を囲繞する土手は,北・西・南辺を確認した限りではかなり背の高い土堤です。バライの北側にはベンメアレアの北辺となっている川が流れていますが,これがバライに引き込まれているか否かは今のところ確認されていません。ただ,目視による限りにおいては,川の水位は土堤よりもかなり低く,バライ内の池底のレヴェルよりも低いようなので,これを引き込むのは難しいように思われます。

 

これだけ背の高い土手を周囲に巡らせているわけですから,その貯水量は相当な量が期待されるところで,あわせて入水のキャッチメントエリアもかなり広かったことが推測されるところではありますが,今のところ,その取水のための水門や水源は定かではありません。北にはクーレン山が横たわっており,その南裾にベンメアレアが位置していることを考えると,北側の高みからなんらかの水流があったことが推測されるところではありますが,実際にはベンメアレア東側の河川は北東に流れて,やや離れた王道上かかる大橋スピアン・タ・オンにて南方へと流路を変えていますので,この推測もまたあまり正しそうにありません。

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こうしたベンメアレアでのバライの入水と同様の問題が,コー・ケーの貯水池ラハールにもあります。ラハールはこれまで南辺を除く三辺に土手が築かれているものと考えられてきましたが,南側にも土手があるらしいことが確認されつつあります。全体として南から北へと勾配を有するラハール周辺においては,入水は南側の緩い丘陵地側からやってくるものと考えられますが,土手が南側にあるとなれば,どこかに土手を切った水門があったことが予想されます。ベンメアレアでも同様ですが,こうした調査をする最大の障害は地雷の存在にあり,今のところどちらの遺跡でも詳細な踏査ができずにいますが,興味深い課題です。(一)

ベンメアレアはシェムリアップ市内から1時間ほどで訪れることができ,最近は特に日本人に人気のある遺跡です。鬱蒼と茂ったジャングルの中に静かに佇む,朽ち果てたこの石造の大寺院では,19世紀後半,アンコール文明が密林の中から発見された当時の感動の場面に立ち会うようです。寺院を形作っていた大きな切石の上を全身でバランスを取りながら慎重に進むとき,過去の文明が築いた建築の偉大さと,それをも呑み込む自然の力強さや時間の悠久の流れを感じることでしょう。数年前に「Two Brothers」というフランス映画の舞台になった後,境内にはあたかも映画のカメラワークそのものを体感できるような立体的な動線を楽しめる木道が設置され,他の遺跡にはない魅力あふれたサイトとなりました。

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と,なんだかこそばゆい観光ガイドの一文のようになってしまいましたが,一般的にはそんなエキゾチックで冒険心をくすぶる遺跡,それがベンメアレアだと言えるでしょう。

この遺跡で,2009年8月末より〈早稲田大学-名城大学〉による研究が開始されました。

 

ベンメアレア遺跡は,しかしながら,研究者にとってはなかなか手強い相手です。『黙して語らず』というのがモットーであるかのごときこの遺跡は,一切の碑文が出土しておらず,建造年代も,建造王も分かっていません。建築や装飾はほぼ完璧に仕上げられており,付け入る隙がなく,調査する上での面白みに欠ける遺跡だと言わざるを得ません。ちょっと隙があった方が可愛らしくて,いろいろとつっつきたくなるものでしょう(?)。

 

この遺跡はよくアンコール・ワットとの比較において引き合いに出されます。たしかに,寺院の構成や建築の完成度,そして装飾様式はとても似ています。アンコール・ワットと前後して建立されたことは間違いありません。様々な推測にもとづき,アンコール・ワットよりも前に,とか後に,造られたと紹介されており,たしかに,建物の造作や彫刻装飾などから様々な類似点や相違点を示すことは可能ですが,実際に確かな時代の前後差を示すことは,建物そのものからは難しいと言わざるを得ません。

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さて,平面図をみると一見して確かにアンコール・ワットと似ています。実際にはアンコール・ワットはピラミッド型の立面をしているのに対して,ベンメアレアは起伏がありませんので,立面的には全く異なったものですが,このように類似していることから,クメールの最高傑作となるアンコール・ワット建造の試作品としてベンメアレアが造られたという人がいるほどです。

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アンコール・ワットでは極めて精確な図面集が刊行されていますが,ベンメアレアで作成されている図面はさほど正しくありません。細部に建物を眺めていくと,図面とは異なる部分が少なくありません。また,建物の配置なども厳密には異なっています。

 

そうしたことから,調査隊はまずは遺跡の精確な平面図を作成することに取り組んでいます。

GPS測量によって基準点を設置し,そこからトータル・ステーションで建物各所の測量を行います。また,建物細部はメジャーや曲尺などを用いて採寸していきます。遺跡内は,樹林に覆われ,また崩落石材によって移動が妨げられることもあり,測量は難航していますが,徐々に進みつつあります。

 

平面図の作成は,もちろん建物の基礎情報として,様々な応用的な調査において不可欠なものではありますが,この調査隊では,最終的には図面の縮尺によってつぶれてしまうような極めて高い精度の測量を行っています。その意図は寺院の設計方法の解明が重要な研究目的の一つに含まれているためです。究極的な目的としては,アンコール・ワットの設計方法を解明することにありますが,その類例,手がかりとしてベンメアレアを対象に分析を進めることが予定されています。

 

最終的には寺院全体の平面測量を計画していますが,順序としては,寺院内の各部分を細分化して,①十字回廊,②南北経蔵,③宮殿,とそれぞれ呼ばれている建物から測量を行っています。十字回廊はアンコール・ワットとの直接的な比較ができる可能性が高いため,経蔵は他寺院での分析例が多く,また南北で形状が異なっており興味が持たれるため,宮殿はアンコール・ワットには認められない特徴的な要素であることが,それぞれの理由です。

また,各建物ではそれぞれに副次的な研究テーマがありますが,その詳細はまた機会をおって紹介できたらと思います。

 

このように,寺院そのものの構成についても興味が持たれますが,それとは別に,寺院を取り巻く他の建物や貯水池などの施設についても調査を行っていく予定です。

実際には,雨季には踏査は難しいため,今後の乾季の調査に備えての予察的な調査として,今回は主要な関連遺構について確認をする程度です。

 

そうした関連遺構の配置を観察すると,ベンメアレア寺院以外の他の大型複合寺院と配置状の類似点などが見えてきます。コンポントムのプレア・カーンやバンテアイ・チュマール,その他アンコール遺跡群内の寺院でも見方によっては有意な関連遺構を抽出することができるかもしれません。なにか基本的なクメール都市の配置法がここから導き出せたら面白いことでしょう。

また,ベンメアレアは王道の分岐点にあり,立地上の重要性が高かったものと考えられます。王道と寺院,あるいは寺院周辺の様々な工作痕との関係も興味の対象となります。

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調査を行っている学生メンバーには,ランボーやらソルジャーという勇ましいニックネームで呼ばれている強者もいますが,肉弾戦の舞台にもよく似合うこの遺跡での調査は来年にかけて数ミッションにわたり進められる予定です。(一)

ここ1週間は連日の雨。

カンボジアの雨と言えばスコールで,短時間にバケツをひっくり返し,バスタブをひっくり返し,25mプールをひっくり返したような,激しい雨が普通ですが,この度の雨は,日本の梅雨を思わせるようなシトシトとした陰気な雨と,この猛烈スコールを織り交ぜた変幻自在の長雨でした。

調査のために,シェムリアップとコンポントムを行き来していると,日に日に水位が高くなり,ついに先日,カンボジアの大動脈の一つ,国道六号線が冠水しました。

 

090912-6.JPGトンレサップ湖の北岸を走るこの国道は,南流する雨水を堰き止めるように土手上に延びていますが,北側に溜まった雨水が遂に国道のレヴェルを越えて,湖側に流れ込んだのです。

国道沿いには高床式の家屋が建ち並んでいますが,その多くが床下浸水で高床式の威力を存分に発揮しています。

 

090912-3.JPG道路しか地面がなくなってしまったため,人も動物も家か道路に集まります。牛・豚・犬・鶏などなど家に入れない動物たちは揃って道沿いに出て並んでいます。道路からは投げ網で魚を捕る人達,車が通過したときの飛沫を全身に浴びて楽しむちょっと危ない子供達,もうなにもかも嫌になったのか,それともこんな非日常が楽しいのか,道に椅子を並べてビールを飲むおじさん達。道には,生活があふれ出しています。

 

090912-5.JPGここ国道六号線は12世紀にアンコール王朝の大王、ジャヤヴァルマン七世が整備した「王道」を20世紀前半に再整備した道です。この道について研究をしていた成果をようやく短い論文にまとめることができましたが、実はこれを執筆したものの、分からないままに取り残された課題も少なくありませんでした。

王道の途中にはラテライト造の橋がいくつか架けられていますが、この橋はある研究者によって二つの機能があると指摘されていました。一つはもちろん道を横断するため、そしてもう一つは土手状のこの道が雨水によって決壊するのを防ぐため、というものでした。後者の理由は、頭の中では理解されるものですが、なかなか実感がわかず、果たしてそんな目的が本当に必要だったのだろうか?こんな橋で貯水を放水することで決壊が防げたんだろうか?と疑問ではありましたが、今回の様子を見て、心底納得できました。

 

090912-1.JPGまた、自分で提案しながら不安であった、この土手を道路と併せて灌漑施設に利用したのではないか、という仮説もまた、十分に確かそうだという手応えを得ることができました。

アンコール遺跡は「水の都」と呼ばれるほどに、様々な水利施設が、宗教施設と一体化して都市を形作っています。雨季と乾季に二分される環境において、雨水を年間を通じて再配分するための施設が作られたわけです。とうぜん、乾季の水不足を解消することが大きな課題ではあったと思いますが、あわせて、雨季に猛威をふるう雨水をどうやってコントロールするのか、という点もまた重要な点であったことでしょう。

 

090912-4.JPGサンボー・プレイ・クック遺跡にもいくつかの水利施設が確認されつつあります。これらの施設、いつもは見ていてもとても不思議です。ちょろちょろと流れるような小川に立派な土手が築かれ、水路が通され、貯水湖が設けられる。はたして、こんな施設がどれほど役に立ったのだろうか?と。

しかし、こうした自然の力強さを目の当たりにして、いつ来るとも知れない不測の事態に備えて公共施設が築かれたという様子が想像されます。年間を通じて恒常的に利用された施設と、突発的な災害時にこそ力を発揮する施設とが、ここには複雑に組み込まれていたようです。(一)

 

*文中の論文

下田一太、中川武「新旧の王都をつなぐ古道について-クメール古代都市イーシャナプラの構造に関する研究 その2」日本建築学会 計画系論文集,No.642, pp. 1867-1874.

タイとカンボジアを分かつ、ダンレック山脈の尾根の上に、迫り出すように建造されたプレア・ヴィヘア。

 

長く急な坂を何度も越えて辿り着いたのは、その寺院の門から、さらに200mほど下のところ。ここからは車を降り、歩いて行かねばなりません。兵隊さんたちの仮設テントの前に車を止めさせてもらい、岩山を歩き始めようとすると、彼らが「こっちの方が歩きやすいよ」と道を示してくれました。

 

人ふたりが方を並べて歩けるくらいの整えられた土の道。確かに歩きやすい。でも、左手はタイへと続いている覗きこめないような急斜面。はるか下に望む低地は、すでにタイの領土。道の右手には、遠くプレア・ヴィヘアの参道がちらりと見える。

そして、その道の両側には、人ひとりかふたり分の小さな塹壕が点々と並んでいました。まさに前線、といった印象。その塹壕の周りには、事があればそこに飛び込むであろう、兵隊さんたちの姿が。

 

目の前を通り過ぎるときに、一言二言交わすあいさつ。迷彩服を着ていなければそれとわからないほど、その言葉もその照れ笑いもクメールのいつもの村のおじさんたちと変わらない。ただ、一瞬目もとや肩のあたりに緊張が見える。それは私たちに向けられたものではなく、こういう環境にいる中で蓄積され、染み付いてしまったような緊張感。

 

互いに言葉をかけ合いながら、ゆっくりと土の道を上っていく。この人たちに対する恐怖感はまったくない。でもこの場所に漂っている戦場の気配に飲み込まれそうで、自然と歩みが速くなる。気がつけば後から来ていた仲間たちとだいぶ離れて、一人寺院の最初の門をくぐっていました。

 

斜面に逆らうように作られた大きな舞台のような場所に立つゴープラ。その奥には、石畳の参道が緩やかに上りながら第2の門へと続いている。そこはすでに山頂に近く、視界の開けた左手にはさらに続くダンレック山脈が見える。タイ側から緩やかに上って、カンボジア側で突如として絶壁になるその姿は、低地に覆いかぶさる波のよう。

 

参道を上っていく。少しずつ、さっきまでの殺伐とした気配が消えて、歩く速度もゆっくりになる。改めて周囲を見渡すと、この寺院は大きいんだなぁ、と思えてくる。石材ひとつひとつや寺院自体の規模ではなく、スケールが大きい。よく見ると、石畳の参道は途中から天然の岩盤に変わっている。

 

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2番目のゴープラ。きれいに整形された石材。破風の先には、アンコールで言えば、バンテアイ・スレイを思わせる立体的な渦巻き模様が空に向かって胸を張っている。先ほどまで目の前にちらついていた銃火器とは異なり、しなやかな曲線が柔らかい気持ちにさせる。

 

ここを越えると、今度は短い参道と石段がいよいよ最後の聖域、寺院の中心部へと導く。

 

 

 

 

 

 

脇門をくぐって最初に目に入る、経蔵。 090708-2.jpg小ぶりだが、堅牢に作られているのがわかる。

 

経蔵の脇をすり抜け奥へと進むと、崩壊した中央祠堂が目に入る。しかし、前室も周囲の回廊も驚くほどきれいに残っている。まるで中央祠堂だけが、何者かの悪意によって押しつぶされたかのようだ。

 

 

 

090708-3.jpg 090708-4.jpg祠堂周辺にはくりくりとして、どことなくコミカルな表情のタオ(ライオン)やカーラが散乱している。

 

 

 

 

今もしっかりと残る前室からは、お坊さんの読経の声と、参拝するクメール家族が持ってきたお線香の香りが流れてくる。

 

それほど広くない境内をくるりと回り、寺院の裏手へと出る。そこはまさに、絶壁の上、はるか下方にカンボジアの大平原を望み、その中をここまで私たちが辿ってきた道がまっすぐに進んでいく。崖の上の大きな岩盤に腰掛け、しばしひたすらに広い大地を見続ける。雲が落とす影が足もとの森を黒く染めていく。

090708-5.jpg周囲では、休憩中の兵隊さんたちが同じ岩盤の上で、煙草を吸ったりしている。始めに感じたあのささくれ立った緊張感はここにはない。

視界の奥から続いてくる山容と、どこまでも平らに広がっている平野を見ていると、この大地はきっとこういう戦いの歴史を何度も何度もみてきたんだなぁ、と思う。きっとこのプレア・ヴィヘアという寺院もこれまでの1000年近い生涯で、同じような体験を何度もしてきたのだろう。

 

「世界遺産」という社会的地位と、それに付随するさまざまな利益を巡って相争う二つの国を、この寺院と大地は沈黙の中で見守っている。しかし、それは、もう諦めてしまったという諦念の沈黙ではなく、これを越えればまた新しい時代が来る、というような力強さと冷静さを秘めた沈黙。

この高台の地が、聖地として、神聖な寺院をつくる場所として選ばれた理由が少しわかるような気がした。

 

向こうから、巨大な雨雲と雨のカーテンが近づいてくる。そのあたりだけが灰色にもやって、見通すことができない。あれに捕まる前に、あの過激な「いろは坂」を下らなければ・・・と、近づいてくる雨の気配と温度の変わった風に追われるように山を降り、一路シェムリアップへと帰路につきました。

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7月8日は、「世界遺産プレア・ヴィヘア」の1歳の誕生日。

ここ数日は、再び国境で緊張が高まっているという噂が聞こえてきます。

今年はどうか、あの場所のおじさんたちにとって平和な年でありますように。

 

(ま)

 

 

 

 

 

 

 

 

6月21日。日曜日。

お休みを利用して、ちょっと遠方の遺跡まで遠足に行くことになりました。

今回目指すは、「プレア・ヴィヘア」。タイとカンボジアの国境にある、絶壁の頂きに建つ寺院です。

9世紀末頃に、ヤショバルマン1世王によって創建され、11世紀には時の王スールヤバルマン1世によって、クメール王国の版図を示す地方拠点の一つとして、シヴァ神の象徴であるリンガが納められたと伝えられています。クメールの遺跡たちの中でも規模が大きく、古代から重要とされてきた遺跡。

 

2008年7月、この寺院はさまざまな問題を抱えながらも、カンボジアの第2の世界遺産となりました。

プレア・ヴィヘアが抱えていた問題。それは東南アジアの歴史の変遷を色濃く反映しています。タイとカンボジアの長い歴史の中で、国境が推移したり、国家の部分的な割譲があったりと、カンボジアとタイの国境沿いはその所有権をめぐってこれまでも議論を呼んできました。

そして、聖地プレア・ヴィヘア寺院をめぐっても、それがカンボジアのものであるのか、はたまたタイのものか、という両国の世論を背負った議論の末に、2008年秋、両国の国境で武力衝突が起きるという悲劇を生むこととなりました。

数回にわたる衝突ののち、現在では状況がかなり安定したという情報を得て、視察を兼ねた遠足です。

 

早朝6時半。朝靄のシェムリアップを出発し、まずはタイとの国境の町、アンロンヴェンを目指します。

6:55  「東洋のモナリザ」と呼ばれる美しい彫刻で著名な、バンテアイ・スレイ寺院の横をすりぬけ、無駄じゃないかと思うほど巨大なロータリーを回りこむと、アンロンヴェンまで続くピカピカの舗装道路に入ります。以前は4,5時間かかると言われていたシェムリアップ―アンロンヴェン間ですが、つい最近完成したこの新しい道のおかげで、およそ1時間半ほどで到着するとの噂。実際に検証してみましょう。

 

こんな大きな重機が2台も並べるほどのしっかりした道でした。ちなみに片方の重機を路上で解体しているところです。なぜここで・・・

090621-1.jpg7:07 千本リンがで知られる山頂の聖地、クバルスピアン通過。このあたりから少しずつ高台になっていき、ピカピカ道路はアップダウンの繰り返しでちょっとジェットコースター気分。

 8:06  アンロンヴェン着。話に聞いていたより早い、1時間10分。なかなかの好タイム。しかも、アンロンヴェンまであとほんの1kmほど、というところから道が完成しておらず、未舗装のぬかるみの中を横滑りしながら走行。この道路が最後まで完成すれば、シェムリアップからタイ国境まで、1時間も夢ではないはずです。

 

 

この先にどんな苦難が待ち受けているかわからないので、この町で朝食を。タイへの玄関口となるアンロンヴェンですが、印象はまだまだ小さな田舎町。4人で朝食を食べて20000リエル($5)なり。

道が舗装されたからには、この小さな町もタイに向かう拠点として「街」へと成長していくのでしょう。

 

 8:50  昼食用にヌンパンパテー(クメール風サンドイッチ)を購入して、再スタート。ここからは未舗装の赤土の道。プレア・ヴィヘアのお膝元となるスラアエム村を目指します。

タイとカンボジアを分かつダンレック山脈を左手に望みながら進むことおよそ30分、トロペアン・プラサートという名前の小さな村に着きました。ここでプレア・ヴィヘアまでの道を教えてもらい、赤土の道をさらに東へと進みます。道の脇にところどころ出てくる新しい村。家の形が同じだったり、壁板が真新しかったりと一目見て、新しいとわかります。この道の両側にはきっとこれからたくさんの家が立ち並ぶのでしょう。

090621-3.jpgとはいえ、まだまだこんな感じの道です。

 

 10:08  プレア・ヴィヘアの麓の村、スラアエムに到着。ここからはダンレック山脈に向けて北上。村から離れて間もなく、道路の両側に土嚢袋を積み上げた四角い形の小屋が点々と登場。よく見ると中に銃を携帯した兵隊さんたちが。その他にも、装甲車・バズーカ砲(?)などなど、ものものしい雰囲気は山が近づいてくるほどに強くなってきます。

 

 

寺院までは、あと少し。でもこのあと少しのなかに、プレア・ヴィヘア最後の難関が残っています。

 

それは・・・ダンレック山脈の断崖を切るように登っていく心臓破りの急坂。スキー場で言うならば上級者コースのさらにその上をいくような斜面を大蛇が這うようにコンクリートの道が1本上っていきます。

4駆だから、まあ大丈夫だ、という地元のオジサンの多少不安なお墨付きを得て、我々4名の命を乗せてトヨタの黒ヴィーゴがこの断崖へと挑みます。

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いよいよ最後のアタックです。

 

 

そろりそろりと慎重に上っていくヴィーゴ。登り口のところですでに、あのジェットコースターが落下点まで昇っていくときの音が「カンカンカン・・・」と聞こえてくるようで、掌に汗が。

 

 

 

 

そうして2つほど大きなヤマを越えていったとき、前方の坂を黙々と上る一人の兵隊さんを発見。暑い中、伏し目がちに歩を進める姿を見て、「乗せてあげよう」ということに。カンボジア人のメンバーが声をかけると、人懐っこい笑顔で「いいのかい?」と兵隊さん。まあ、荷台にひとり増えたくらいどうってことはないでしょう。後部座席から振り返ると、ちょうど顔の高さが一緒で、お互い照れ笑い。

 

このほのぼのとしたエピソードがのちに大変な事態を招くことを、このときメンバーの誰一人として気づいていませんでした。

 

我々4名と兵隊さん1名を乗せてスタートした黒ヴィーゴ。さらに際どい坂を越えて行った我々の視界の先に、さらに炎天下黙々と坂を上っていく3人の兵隊さんが。これは・・・やっぱりこの方たちも乗せてあげなきゃだよね?ということで、声をかける。嬉しそうに乗り込む3名の兵隊さんたちと、小さく洩れるヴィーゴの溜息。そして、ひとつ坂を越えるたび、2人、4人と兵隊さんたちに出会い、気がつけば荷台には兵隊さんたちがぎっしり。

 

なんだか緊張してしまってぎこちなく振り返ると、迷彩服に包まれた10近い微笑みfaceが。怖い人たちではないんだな、と思いつつ。カメラは向けられませんでした。

 

低く重い踏ん張り声をあげながらヴィーゴが坂を上っていく。ひっくりかえるんじゃないかと思うような坂をいくつも越えた、頂上に程近い平らな場所で、突如後ろから「ガンガン」と何かをたたく音が。びっくりして振り返ると、ちょうど駐屯小屋があり、荷台の兵隊さんたちが「降りるよ!」という合図でした。

日に焼けた顔に「オークン!」と笑顔を浮かべて、思い思いに手を振り散っていく姿を見て、ああ、この人たちもクメールのおじさんたちなんだなぁ、とちょっとほっとする。

 

急に軽くなったヴィーゴは喜びの(?)唸り声をあげて、最後の急坂を登り切りました。

 

そして、目の前の斜面には、カンボジアの国旗と、ユネスコの旗、そして世界遺産を示すマークが強めの風にはたはたと揺れていました。

 

 

続く。

 

(ま)

 

 

 

 

現在JSAでは、シェムリアップのJASA事務所内に、バイヨン寺院を対象とした展示ホールを設置する準備を進めています。

その一環で、バイヨン寺院の魅力の一つでもある、外回廊の浮き彫りを新しい石材で再現するというプロジェクトが進んでいます。比較的保存状態のいい外回廊。それでも、苔や地衣類の繁殖で徐々に見えにくくなっています。そこで、浮き彫りの中の代表的なものを再現することになりました。

石彫を担当するのは、JSAの現場作業員たち。日本人の石工さんから学んだ石材加工の技術と、現在のカンボジアで彫刻を生業とする人たちから学んだ彫刻の技法を駆使して、古代の職人たちの技に挑みます。

どの場面を再現するか、を検討してきたのは、修復の技術顧問である下田と、現地広報の吉川。バイヨンならではの特徴を持っていて、かつその背景に現在へとつながるストーリーのある場面を選ぶように検討を重ねました。

今週は、いよいよ石彫が佳境に入り、細かな部分での調整が必要となってきました。というのも、きれいに見える外回廊も烈火の脅威にさらされており、大まかな形は判別できても、細かな手の動きや表情、手にしている道具などはかなり掴みにくいのです。そのため、現場で作業員と情景について話し合ったり、回廊の場面を見に行ったりしながら、相談しつつ進めています。

そんなわれらに朗報がありました!

フランス極東学院(EFEO)が1930年代に撮影した、古い写真の中にまだ美しく残る外回廊の写真を見つけたのです。早速許可を得て、資料をいただき、プリントして現場へ。

作業員たちも嘆息するほど、今よりずっとはっきりと外回廊が写っています。

 

その中の一つに、狩りの風景がありました。現状の外回廊ではすでにすり減って確認できなかったのですが、古い写真を見ると、どうやら狩人の頭の上に何か載っているようです。そして、とんがり帽子ではないかと主張する吉川と、そんなものはかぶらないと主張する下田の間で意見が対立しました。確かに背景の木の葉とも思えるけれど、なにか気になる・・・。

写真だけでは決着がつかない。そんなときには現場100回!ということで、酷暑の中、絶対に何かかぶっている!という確信を持ちながら、外回廊の問題の現場まで吉川が走りました。

そこで見つけた、驚愕の事実!!!・・・は、

先に言っておくと、下田も吉川も間違っているわけではありませんでした。狩人は頭に被っていたのです。でもそれはとんがり帽子ではありませんでした。

狩人は、なんと、鹿の形の帽子をかぶっていたのです!野生のウシと思われる生物に、息を詰めて弓を引く狩人。その頭には、なんとりっぱな角を持ったシカの顔が・・・。息せき切って駆けもどり、下田に報告し、再度写真を確認すると、確かにシカです。こちらを見てにやりと笑っているようなシカが。

そういえば、バイヨン寺院の内回廊の彫刻にも鹿の帽子をかぶった狩人が描かれていた、と急に思い出しました。これは、間違いない!

  090326-1.jpgのサムネール画像             

 

 

←こちらが問題の狩人と鹿

大発見というには、実に小さなことですが、実際に自分で資料を探して、疑問を持って、現場へ走って確認して、そういう過程を踏んだ後には、それはもう素晴らしい発見でした。久しぶりに、遺跡と向き合っているな、と実感できた瞬間です。やった!

 

しかし、この話には続きがあり、事務所に戻って、民俗学的なことにも興味を持っているカンボジア人スタッフにこの素晴らしい発見を誇らしげに話したところ、

「ああ、鹿でしょ?ほら、伝統の踊りでもあるじゃん。昔は狩りで動物を欺くために、鹿の頭をかぶっていったんだよ。」と笑顔で返されました。がーん。

 

でも自分で発見するという経験が一番大事!と言い聞かせ、明日も浮き彫りと向き合います!(ま)

アンコール遺跡の顔ともいえる、アンコール・ワット中央塔にかけられていた足場がようやく解体される運びとなりました。

 

2008年半ばより、アンコール・ワットの中央塔と北東の副塔とに足場が設置されていました。中央塔上部にのびた樹木を伐採することが当初の目的でありましたが,足場を設置して近くによって塔上部の石材の状況が観察されたところ,石材の劣化が著しく進んでいる箇所があることが確認され,これらの箇所の修復について検討が進められていました。

 

今回のところは,修復工事の実施には至らず,危険箇所の処置については再検討となりました。約1週間かけて中央塔の足場は解体されます。また、北東の副塔にかけられていた足場は,他に3つある副塔に順次設置し、上部の樹木の伐採が進められる予定です。

これらの足場は日本国政府の修復隊より一時的にアンコール遺跡の保存機構に対して提供されたもので,足場の設置にあたっては当修復隊の技術者が協力しています。(一)

3月17日,シェムリアップUNESCO/JASAオフィスにて「International Symposium and Seminar on the Present Situation of Environment in the Angkor Monument Park and Its Environs, Cambodia」が開催されました。

 

このシンポジウムは,金沢大学・塚脇真二准教授が研究グループの代表を務めるERDAC (Emvironment Research Development Angkor, Cambodia)の主催によるものです。日本人とカンボジア人の研究者10名以上によって,ここ数年の間に取り組まれた研究の成果が報告されました。

 

アンコール遺跡やトンレサップ湖をとりまく,カンボジアの環境問題について,「河川環境,土壌環境,気象環境,水環境等々」多様な視点からの報告が繰り広げられました。

 

シェムリアップは急速な観光開発や経済発展の真っ直中にありますが,「豊かな森と清らかな水と空気」に満たされた美しい環境の中に、いつまでもこの魅力あふれるアンコール遺跡群があって欲しいものです。

目に見えない自然の兆候を感知すべく,科学技術を援用した研究者の鋭い視線を感じるシンポジウムとなりました。(一)

 

シンポジウムの詳細は以下をご参考ください。

http://mekong.ge.kanazawa-u.ac.jp/m&j2009/m&j2009.html 

アンコール遺跡の北東にやや離れて位置するバンテアイ・スレイ遺跡で,現場の遺跡案内施設が開設されました。この展示場設置はここ数年この寺院で保存活動を進めてきたスイス隊(BSCP)によるものです。3月16日にはカンボジアの副首相ソッカーンも出席され,盛大に開幕式がとりおこなわれました。

 

バンテアイ・スレイ寺院は,1930年代にアンコール遺跡では初めての近代的な修復手法となる「アナスティローシス」が適用された寺院です。その修復から約80年、この寺院では考古学的な発掘調査を伴う,堆積土砂のクリアランスや,散乱石材の記録・仮組展示などがスイス隊によって進められ,化粧直しが行われました。

今回の案内施設の設置は,駐車場やお土産売り場,レストラン,観光客の動線計画のなどを含む寺院周辺の総合的な観光整備計画のマスタープラン一環として整備されたものです。

アンコール遺跡に新たなアトラクションが一つ増えたことになります。

この展示施設の開設をもって,スイス隊の活動はいったん休止となりますが,今後の活動復帰が期待されます。(一)

カンボジア国内の遠方遺跡の多くは、近年アクセスが改善されてきましたが、未だに訪れるのが困難な遺跡の一つが、コンポンスヴァイの「プレア・カーン」です。2月24日、元在カンボジア日本国大使の内藤ご夫妻を、修復チーム団長である中川武教授が御案内しました。

 

日帰りでしたが、出発から帰着まで12時間以上、その大半が悪路の車内。

調査には岩石学の専門家である内田悦生(早稲田大学教授)が同行され、当遺跡群の石材の調査を行いました。過去にも数度、遺跡を訪れていますが、今回は石材の「帯磁率」という特性を測定することが主な目的でした。過去の調査で、この帯磁率によって建造編年を分析できる可能性が確認されており、それを追補する調査となりました。

 

調査の前日には、プレア・カーン遺跡群の帯磁率をめぐって、EFEOのクリストファー・ポチエ教授、ドイツ修復隊のハンス・ライセン教授夫妻、シドニー大学の研究者らがJASAオフィスにて討議をした上での現場調査でありました。

プレア・カーン遺跡では、碑文学・美術史学より寺院の編年が推測されていますが、今回の調査によって建物の増築の経過がさらに詳細に見えてきました。(一)

サンボー・プレイ・クック遺跡群では,1998年より早稲田大学理工学部建築史研究室(代表:中川武)により,「サンボー・プレイ・クック遺跡群保全事業」が進められています。

今回は,煉瓦造祠堂の三次元レンジレーザー測量をN18と番付されている塔で行いました。バイヨン寺院,およびにここサンボー・プレイ・クック遺跡群では,東京大学池内研究室による協力の下,かねてより三次元計測が進められています。また、昨年からはアンコール・ワットの回廊の浮き彫りの三次元計測がアプサラ機構と共同で始まりました。

N18塔は木の根が塔全体に絡みついた,ある意味,歴史の創った芸術的ともいえる景観を呈しています。これまでに,保全事業では遺跡群内の寺院の図面を作成してきましたが,今回はこの塔の立面図を作成するために三次元計測を実施しました。計測では,東京大学・大石岳史先生の協力を得ました。

三次元計測によって得られたイメージもまた,不思議な迫力があります。(一)

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ところで,このブログはアンコール遺跡のことを書かなくてはならないので,少し話の方向を変えましょう。

 

今回コーンの滝を見たいと思ったのは,やはり石井先生が仮説として示されているメコン河とムン川をもって「東南アジア大陸部を東西に結ぶ古代文化のルート」があったのではないかということに,以前より強い関心があったことによります。これは,私が以前ある奨学金をいただいたときの面接で,面接官であった石井先生が話されたことの中にこの件がコソッと潜んでいたことがきっかけで,それ以来,いつか自分で調べなくてはならない,と勝手に使命のように思っていることなのです。

 

2004年に,アンコールの古都シュレシュタプラの調査を何度か行い,その後メコン河沿いのクラチエやストゥン・トレン,そしてコンポン・チャムのクメール遺跡調査の悉皆調査に,そして昨年ようやくムン川沿いにも分布するドヴァラヴァティ遺跡の一部を見ることができました。そして,今回ようやくこのコーンの滝を見ることで,おぼろげながらにチャオプラヤー流域からムン川を経由して,チャンパサック,そしてメコン河に入ってタラ・ボリヴァット,サンボールを繋ぐ要所を確認することができたのです。

 

前に,少し触れましたが,なぜチャンパサックでクメール文化が発祥したのか,これは大きな謎です。港市国家として海岸付近にその前進の勢力は居を構えていたのですから。もしかしたら,チャンパサックがクメール文化の出自であるという前提自体が間違っているのかもしれませんが,これを追跡しようとしたとき,どうしてもインドからチャンパサックへの文化の流入路を調べておく必要があります。インドに発する外来文化が,ベンガル湾からこのチャンパサックに入ってくる経路がメコン河とは別にあるのではないかという説は大変魅力的なものです。

 

ただ,本当にまだまだ一部ではありますが,昨年訪れることができたドヴァラヴァティの遺跡を見る限りではやや疑問ももたれました。やはり文化が第一に流入した地域でもっとも高い精度の作品が創られ,そこから周囲へと伝播するうちに基本形は少しずつ崩れ精度を落としてゆく。一方で,別の発想を組み入れながら新しいものが発生するときに,先の技術力を上回る稀な事例があって,それが新たな基本形を創り出す。というようなプロセスを考えた場合,ドヴァラヴァティがワット・プーやタラ・ボリヴァットに先立っているとみるのは少し難しいような気がするのです。

 

文化の伝播や発展そのものにもたくさんの疑問があります。いったいどの程度の速度で文化は移動したのだろうか。グレートジャーニーのような,何百年何千年もかけたゆっくりとしたものではなかったでしょう。かといって,ハリウッド映画が一夜にして全世界中の人々に興奮をもたらすような速度でもなく。

 

また,美術史学的にみたとき,建築や彫刻といったモノのカタチに代表される図像的な表現はどうやって変化してゆくのか。スポーツ競技のマテリアルや自動車のデザインが技術や機能と符合しながら刻々と変化し,ニーズそのものを刷新してゆくのとどれほど違うことか・・・。

 

しかしとにかく,私はまだまだムン川沿いの文化については無知にも近い状況です。大河メコンのように大きな対象を前にしたとき,各流域を少しずつ断続的に繋ぎ合わせて,いずれその大河の全容が掴めるかもしれない,と微かな期待を抱くように,大陸部の「古代の東西文化交流ルート」もいつか全貌が見えてくるかも知れません。そうしたら,その先にさらにインドまでのルートが影を潜めて待っているのでしょう。そして,もう一方に中国への。

 

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遺跡から少し足をのばして「メコン河の大瀑布コーンの滝」を訪れました。正確にいうと,いくつもの瀑布群の中でも,最もメジャーなパペーン滝とソムパミット滝です。ワット・プーからバスで1時間半ほどでコーン島に,そしてさらにボートに乗り換えて1時間ほどでコーンヌ島,そしてさらに30分ほど島内を歩くとソムパミット滝へと至ります。パペーン滝は,ボートに乗らなくても国道13号線から少し入れば訪れることができます。

旅行書などにも良く記されているところではありますが,かつて中国への通商路としてこのメコン河に関心をいだいていたインドシナの宗主国フランスの野望を断念させたのが,この自然の要所,コーン大滝です。15mほどの落差にすぎないものの,毎秒7万から9万立方メートルという水量は圧倒的で,激しく周囲の空気を震わせ,近づく者に自然の激しさを迫らせてきます。大型船はもとより,小舟であってもとてもこの滝を乗り越えて物資を輸送することなどできないことでしょう。

 

 

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今回は石井米雄先生の書かれた「メコン」を片手に,小さな旅をしましたが,先生が最初に訪れた1950年代のこと,そしてそれを追従するように再訪された1990年代の記録と比較しても,あまりにもあっけなく,味気ないほどに簡単にラオス南部の各見所へと辿り着いてしまうのが悲しいほどでした。コーンの大滝にやっとのこと辿り着いたという,かつての感激など微塵にも感じられないほどに,ちょこっと船に乗って,ちょこっとバイクに乗ったら到着してしまうのでした。かつては,長い道中に思い描いた,様々な想いや深い考えが発見にも近い大きな創造力を育んだのでしょうけど,今はこれしきのことではそうした体験は得られないのです。そして,そんなことを残念に感じながらも,滝の前で売られていたアイスクリームなどを食べてしまうと,もはや絶望的なまでに感激というものから遠ざかってしまうのでした。

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さて,現在ワット・プーで進められているイタリア隊による修復工事はイタリア政府とアメリカのNGOであるGlobal Heritage Fundとが予算的な支援をしています。今回はGlobal Heritage Fundの代表であるジョン・サンデーと同便でラオス入りをしました。彼は現在バンテアイ・チュマール遺跡の修復工事の指揮をとっていますが,今回は彼のNGOが支援しているワット・プーの修復の視察のためにラオスを訪れたのでした。

 

090130_1.JPG彼は以前,World Monument Fundが実施しているアンコール遺跡のプレア・カーン遺跡やタ・ソム遺跡で修復事業のリーダーを務めており,クメール寺院については精通した人物です。ワット・プーはアンコールから少し離れたアンコールにとっては衛星的な位置にある寺院ですが,クメールに関心を持っている研究者はしばしここを訪れ,メコン川の緩やかな流れと聖山の麓の静寂に包まれたこの寺院で,アンコール遺跡の全景に想いを馳せるようです。全体像を描くためには,中心にばかりいてもダメなのかも知れません。

 

090130_2.JPGさて,こんな辺境な片田舎ではありますが,イタリア隊の宿舎の夕食はさすが絶品のパスタとワインと,そして話し好きのイタリア人の喋りに圧倒されて,ラオスの静けさなどまったく遠くに追いやったままに夜は更けてゆくのでした。

現在ワット・プーを訪れますと,参道の南側に立つ「ナンディン・マンダパ」という建物の修復工事が,イタリア隊によって進められているのが見られます。

 

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ここでの修復は建物の一部を解体して再構築するという工法です。建物の石積みの最下段までは解体をしなかったために,不同沈下や外開きをおこしている基壇の少なからぬ変形を,上部で吸収しなくてはならないところに,この修復工事の難しさがあるように見うけられました。室内に降り込む雨水の処理のために基壇内部と建物の外部へと配水管を配する方法がとられています。傾斜地という立地を考慮した上での対策であったものと思われますが,将来的なメンテナンスの方法と体制を十分に整えることが課題となりそうです。しかし全体としてみて,人員や機材,そして立地条件などの環境を考えると,修復隊の苦労は計り知れないものがあるでしょう。

 

 

090129_2.JPG寺院の入口近くに位置する南側の「パレス」ではフランス隊によって修復工事の準備が進められています。すでに建物の回りの草木はきれいに刈り取られ,一部で発掘調査を行われている他,散乱石材の記録やペディメントなどの彫刻部分では仮組が行われています。27日に予定されているワット・プー フェスティバルの後に,本格的に工事が開始される予定です。

今回はワット・プーにおける近年の修復工事についてお伝えします。

 

1991年にラオス考古学研究事業(Project de Recherches en Archaeologie Lao)が開始されてからのことです。日本もまたODA事業として,遺跡のすぐ手前に博物館を設置した他,修復のための専門家の育成事業や修復のための機材供与を行いました。

 

 

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寺院内のクリーニングの様子

 

数年前からはイタリアの修復隊が活動をしています。考古学者パトリシア女史がリーダーとなり,ローマ大学とミラノ工科大学とがコアメンバーとなっているチームです。参道脇に立ち並ぶツクシンボのような灯籠柱のようなポストの一部は,2004年にイタリア隊によって修復されました。

 

 

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参道全景 ポストの修復(2004年1月の写真です)

 

その後,この修復に参加していたラオス人の専門家が残りのポストの修復を行い,今では残存していたポストのほぼ全てが復原されています。山奥へと縦に深く切り込むような参道の脇に,簡素な形のポストを規則的に並べて小さな区切りをもうけることによって,参拝者に聖域への歩みを意識させ,徐々に心を静めるような仕組みを造ったのかも知れません。そんな体験が,修復によって実感されることとなりました。

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修復後の参道を眺める

 

今日のバイヨン。このブログでは「バイヨン寺院に限らず」アンコール遺跡に関することを徒然なるままに記していこうと思います。せっかくの第一回目なので,今回はなにか特別号のようにしたいと思いまして,アンコールの歴史が幕を開けた古都「ワット・プーの今日」から始めることにしました。

カンボジアはちょうど1月末に中国正月があります。特に祝日にはなるわけではありませんが,この機会にラオスを覗いてきました。

 

アンコール王朝が幕を開けるのは9世紀初頭ですが,それに先立つこと300年あまり,アンコール王朝の前身国家であるチェンラと呼ばれる王朝がインドシナに興りました。その出自についてはまだまだ謎ではありますが,定説となっているのが,現在のラオス南部,チャンパサックに位置するワット・プーとその周辺にこの王国は最初の都市を構えたというものです。都市の名は「シュレシュタプラ」。カオ山の山裾にはヒンドゥー教寺院「ワット・プー」が配され,そこから東方,メコン川までの間の平地に環壕に囲まれた都市が築かれました。

 

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シュレシュタプラの都城内からプーカオ山を望む

 

都市の中には煉瓦や石造りの祠堂が散在しています。どれも崩壊して堆積する土に呑み込まれていますが,近年,いくつかの寺院が発掘調査の対象となり,「プレ・アンコール」時代の様式の彫刻や建物の痕跡がたくさん確認されています。

 

 

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煉瓦遺構痕となるマウンド(シュレシュタプラ都城内)

 

この都市については,またいつか話に出てくるかも知れませんが,今日は世界遺産にもなっているワット・プーについてです。

この遺跡はおそらく古くから聖地であって,土着的な信仰の場となっていたものと考えられます。6世紀頃に最初の寺院が造られて以降,数世紀に渡って寺院の増築が続いたようで,今に残る姿を整えたのは,アンコール時代に入ってからです。アンコールの首都から遠く離れたこの寺院ではありますが,アンコール時代に入ってからも長くクメールの地方拠点の一つとして栄えたようです。ジャヤヴァルマン7世が最終的に完成させたアンコール王朝の幹線道路「王道」の終着点の一つがこの寺院にあることは,アンコールにとって古都ワット・プーがいかに重要であったのかをよく示しているでしょう。

 

近年に入って,ワット・プー寺院では少しずつ修復工事が進められています。資源の少ないラオスにおいて,以前より観光資源の目玉としてこの遺跡は注目されていましたが,ようやく遺跡の整備が進み始めています。

 

次号,「ワット・プーの修復」をお届けします。