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バイヨン寺院中央塔の構造的補強処置の研究を目的として、塔の基礎構造となる中央テラスの内部調査を開始しました。

2010年にも中央テラス上南側において鉛直と斜ボーリング調査を実施しましたが、これらの調査によりテラス上に約30mの高さで聳える中央塔の直下には石造の組積支持構造はなく、版築土のみによって支えられていることが判明しました。しかしながら、この版築土が周囲に変形したり流出することを防ぐために、周囲にはドーナッツ状にラテライトの囲繞構造があることが確認されました。

この時の調査は新聞記事としても紹介されました。

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120321_5.JPG 今回のボーリング調査の目的は、前回確認されたラテライト構造の形状、特に外郭の形状を特定することにあります。

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ボーリング調査は前回の調査に引き続き西部試錐工業の北村篤実氏、井手善明氏の協力を得て行われ、サンプルされた岩石や土砂の分析や強度試験には肥後土質研究所の福田光治氏があたり進められています。120321_2.JPG

今回のボーリング調査は中央テラスの側面を水平に掘進するもので、大型の機材を設置することに苦労しました。

また、基壇内部の版築土の強度を測定するためにコーン試験を併せて行っています。

120321_3.JPG 三月という観光にとってはハイシーズンの中、多くの観光客が興味津々に作業を見守る中で調査が進んでいます。計3本のボーリング調査を約2週間にて実施の予定です。(一)

バイヨン本尊仏の模刻制作のために、大型の砂岩新材が現場に到着した様子を先日お伝えしました。

続報です。

 

到着の後、いよいよ彫刻を開始したい・・・と思っていましたが、いざこれだけ大きな石材を前にして、どこから削ったらよいか分からない。。。

という現実があり、彫像の正確な形状をまずは石材に引き写す作業から開始しました。

本物の彫像は過去に三次元計測で形状の記録をしていましたので、そのデータをもとに、実寸大で出力し、そのプリントから全体の輪郭を正確に測ります。

120219_1.JPGそうして測った輪郭を、基準線を墨打ちをした石材の上に丁寧に記し、削り落とすべき不要な部分を確認しました。

この作業をしてみると、かなり大きいと思われていた石材でしたが、幾つかの部分では必要なサイズぎりぎり一杯であることが判明し、一材内にうまく収めるためには基準線等を調整する工夫が求められることとなりました。

120219_2.JPGこうした作業により確実に石材内に彫像がおさまることが確認され、いよいよ荒削りの作業を開始しました。

120219_3.JPGド迫力の石材の前に鑿を握る手にも力が入ります。(一)

バイヨン中央塔の直下の構造を調べるためのボーリング調査が当初予定していた調査工程をひとまず完了しました。

発掘調査がつねに予想を裏切るように、今回のボーリング調査も想定していた結果とは全く異なる地下構造が確認されつつあります。

1011021.JPG鉛直ボーリングでは予想以上の深さまでラテライト材が連続しており、基壇の外縁部にラテライト壁が巡らされている地下構造が予想されることとなりました。また、その下方の版築土は極めて大きな強度が確認されています。

一方、斜めボーリングでは、塔群の直下にはなんら組積構造が認められない様子が確認されました。過去に実施された発掘調査の埋め戻し孔が軟弱であることについても追認されています。

 

101102-2.JPGこうした結果を受けて、明日から三本目のボーリング調査を開始し、より精度の高い基壇内部構造について確認するとともに、第一、第二ボーリング孔に地下水位観測と温度観測をすべく計器の取り付け工事に入ります。また、採取された版築土の室内観察・実験も開始する予定です。(一)

アメリカ合衆国国務長官ヒラリー・クリントンが10月31日にバイヨン寺院を訪れました。

 

バイヨン寺院の中央までは入る予定がありませんでしたが、最上段テラス上で行っていたボーリング調査に興味をもたれ、予定外にJASAの調査現場を見学されました。

当事業に所属し、現場調査の他にも英語でのスポークスマンとして活躍する一面をもつアメリカ人Robert McCarthyが、SPに囲まれながら調査現場ならびに中央塔付近の案内をしました。その様子が翌日の朝刊の一面に紹介されました。

この日に誕生日を迎えたロバートは、ヒラリー・クリントンからHappy Birthday!と言われたとのこと(実話)。一体バイヨンで何を伝えていたのか真相は定かではありません。(一)

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JASA(JSA日本国政府アンコール遺跡救済チーム)は,2008年より,中央室内での2回の考古学的発掘調査とボーリング調査,西室での発掘調査,そして地下探査を行い,中央塔を支えている基壇内部の基礎構造の解明,そして塔の構造的な安定化のための技術開発に取り組んでいます。こうした研究成果をふまえ,当事業の第三フェーズの中央塔の構造研究を締めくくる重要な調査として,10月下旬より11月にかけて中央テラスにおいてボーリング調査を開始しました。

 

 

このブログ内での過去の発掘調査の紹介にてお伝えしたことがありましたが,中央塔の地下構造は、室内で1933年に行われたEFEOによる発掘調査の穴の埋め戻し土の強度が著しく低いことが確認されている上,中央塔の壁体直下には壁体を直接支えるための石組みの構造体が不在であることが明らかとなり、構造的な安定化のために過去の発掘埋め戻し箇所の補強の必要性が問われている状況にあります。こうしたなか,中央塔の安定化のために、中央塔群の地下構造,すなわちラテライトや砂岩積みによる支持体が中央塔の地下に存在するか否か、といった地下構造の解明が不可欠な状況となっています。この疑問を明らかにするために,この度のボーリング調査を実施する運びとなりました。

 

調査では,下の図面に示すように,中央テラスから鉛直に掘削するボーリングと,30度の斜角度で中央塔の直下を横断するように掘削するボーリングを2本入れる予定です。鉛直ボーリングは標準貫入試験とコアサンプリングを,斜角ボーリングはオールコアサンプリングの調査を予定しています。

 

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10月半ばより,テラス上の床面の記録・解体作業・ボーリングマシンの移動などを行いました。ボーリングマシンは,1トン以上の重さがあり,これをバイヨンのテラス上に設置するのは大変な労力を伴う作業となりました。

 

その後,日本からボーリングの専門家二名(北村篤実・井手善明(西部試錐工業))が到着し,マシンの組み立て・設置・調整などを行い,バイヨンの中央塔内で安全祈願式を執り行った後,10月25日より掘削を開始しました。今後はさらに採取されたコアサンプルや観測計器取り付けのための専門家が日本より到着される予定です。

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DSC05053.JPG調査は2週間程度継続する予定ですが,これらの経過については適宜このブログにて紹介する予定です。

 

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*なお,今回調査に使用しているボーリングマシンや消耗品一式は西部試錐工業からの無償支援によって実施されています。また,観測機器については東京大学新領域創成科学研究科の徳永研究室からの支援をいただいています。(一)

早稲田大学理工学部前田研究室の協力のもと,日本国政府アンコール遺跡救済チームはバイヨン寺院において,シェムリアップ空港の離着陸時の衝撃がアンコール遺跡群にあたえる影響についての調査を行いました。本調査はアプサラ機構からの依頼により実施されることになりました。

 

これまでにもバイヨン寺院では中央塔を始めとして常時微振動に関する調査が実施され,アンコール遺跡群における塔状建築の安定性についての研究が行われていました。今回の調査はその延長で実施されたものですが,より精度の高い計測機器を必要としたために,バイヨン寺院の中央塔頂部の計測器等,既設の機器を交換して調査を実施することになりました。

また,寺院周辺の車両の交通が組石造建築に与える構造的な影響についても併せて調査が実施されました。

 

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シェムリアップ空港における飛行機の離着陸時の影響については,以前より懸念されていましたが,今後より大型の飛行機の離発着が予定される可能性もあり,そうした是非を問う上でも重要な調査といえるでしょう。

 

収集されたデータは日本に持ち帰られ,調査結果の詳細な分析が行われる予定です。(一)

東大寺の大仏、そして大仏殿が幾多の災難に遭いながらも、修復・再建されてきたことはよく知られている。中でも、重源と公慶の勧進によって復興された異なる二つの時代の物語は有名である。重源には複数の協力者がいたのに対して、公慶は再建資金を集めるために全国行脚を一人で行い、7年間の苦難の末に1万両、今にすれば10億円の寄付を集めたという。

この公慶の寄付には、貧しい民衆の多くが協力したというが、そこには寄付者と大仏との間に「結縁」を得て、来世の幸福を得ようとする民衆の切なる願いがあったともいう。大仏殿の再建にあたっては、幕府も支援をしたが、大仏そのものの修復にあたっては、こうした民衆からの支援だけで全てがまかなわれた。

アンコール遺跡群の寺院もまた、人々が神仏に帰依する心によって、建立された部分が少なくなかったものとも考えられる。もちろん祭政一致の国家体制において、王がこうした寺院建立を強力に牽引したことだろうが、それだけではこれだけ大規模な事業を成し遂げることは難しかったに違いない。民衆個々の力が神の御許一つに集約されてこれだけの寺院建設が完成した。

 

現在においても、遺跡修復の規模にもなると、やはり個々人の協力に負うのは難しいといわざるを得ないが、今回の本尊仏再安置プロジェクトにおいては、個人と歴史的寺院とが縁を結ぶための機会にできたらと思う。

世界共通の財産であるアンコール遺跡の仏教寺院でもあり、日本をはじめとして海外に住む人々がこの事業に協力頂くことを切実に願うとともに、どんな小さな協力でも良いからこの寺院と共に生きる地元の人々、カンボジアの人々からの支援もまた得て、この事業が進められたら本当に意義ある事業になるだろう。

 

資金面での支援でも、現場作業の上での協力でも、なにかそうした場を設けられないだろうか。支援をされることがあまりにも一般化しているこの国でも、寺院を故郷の村に建設したりするような、特に信仰にまつわる部分では様々な奉仕の精神が生きている。そうした精神をここに持ち込むことによって、本当の意味で喜ばれるべき本尊仏再安置の落慶を迎えることができるように思う。

本尊仏修理と移動についてのシミュレーションをしてみたが,もう一つ考えないとならない問題がある。「中央塔主室の地下の構造強化」について。

 

中央塔における発掘調査やボーリング調査については,以前にもこのブログで紹介したことがあったが,重要な結論の一つとしては,過去の発掘調査後の埋め戻しがきわめて緩い,ということにある。

もしも,本尊仏を室内に安置してしまえば,将来的に中央塔の基礎強化のために埋め戻しをし直す際には,これを再び移動しなくてはならなくなるし,また,そもそも15トンほどのこの石仏を室内に安置して構造的に十分に支持されるのか?という疑問もある。

この点については,これまで地盤や構造の専門家による意見が割れており,15トン程度なら十分に現状の構造でも持つだろう,と推測される専門家と,いやいや十分な基盤の強化が必要だろう,とされる専門家の意見もある。

 

いずれにしても,中央塔の上部構造の長期的な安定化のためには,基礎の強化は不可欠であるという点では意見の一致を見ているので,本尊仏の設置前にその直下の構造許可が求められるところであろう。

 

いろいろな強化方法が考えられる。

 

1.再度,縦穴を掘り下げて,下から順に突き固めながら埋め戻す。この場合には,縦穴が崩落しないように十分な支保を施しながら掘り下げてゆく必要がある。支保の方法について高い専門性をもって検討を要することになろう。場合によっては支保工そのものを地下に残すことにもなるだろう。

 

2.ボーリング孔を利用して,強化剤を下方から注入充填して強化する。この場合には,その方法や素材について十分な検討を要するところではあるが,再びこれを掘り下げるという調査は難しく,リバーシブルな手法ではない。

 

3.基礎杭を打ち込んで,本尊仏の支持にする。この方法では,中央塔の基礎そのものの強化には関与せず,安置する石仏の安定性に限った処置となる。杭の深さについても、地山に到達させるべきか、あるいはその上方で留めても良いか、検討を要するところだろう。

 

4.最初の方法に類似した方法で,再び縦穴を掘り下げて,突き固める方法だが,過去の発掘調査の縦穴の最深部からやりなおすのではなく,必要な深さだけにとどめてこれを行う。例えば,床下5mまでに限って,十分な強度を再現して,本尊仏を支える耐荷板を設けると共に、塔壁体が内側に変形するのを防ごうとする方法。

 

いずれの方法においても,十分な事前研究が不可欠であるが,オリジナルの本尊仏の再安置にしても,レプリカの設置にしてもなんらかの基礎の改善が求められるところである。

オリジナルの本尊仏の再安置は何よりも望ましいが、やはり現実的には厳しい問題が多発することが予想される。次善の策として、オリジナルの本尊仏は、現テラスに保持したまま解体を伴わない修復処置だけを行い、バイヨン寺院の中央には、このレプリカを設置するという案も検討されている。

 

8月にオープンしたバイヨン・インフォメーション・センターでは、石彫の展示物として、この本尊仏の約2/5スケールでのミニチュアを制作した。この時は、特に厳密なレプリカの作成を目指したわけではなく、同じような雰囲気のもの、ということで、各部のプロポーションはやや異なっている。

 

ただ、再安置に制作するレプリカはそういうわけにはいかない。厳密な1分の1レプリカの作成を目指したい。

すでに、仏陀像はレーザースキャニングを行い三次元形状データが得られている。日本であれば、このデータから簡単に同じ形状のモデルを加工することができるが、ここカンボジアではそんなことはできないし、もちろん砂岩での削り出しは自動的にはできないので、手作業でこの加工にあたる必要がある。

レプリカの作成にあたってはいろいろな方法が考えられるが、三次元データから水平、鉛直方向に規則的に切断したときの断面形状を取り出し、同寸大の型枠を何枚も作って形状を調整する方法が良さそうである。中央の断面図となる型枠は高さが3.7mにもなるので、ある程度しっかりとした素材で準備する必要がある。

また、展示品として作成した仏陀像の時に特に苦労したのが、「顔」の表情である。前回は顔だけを3回も削り直して調整をしたが、結局あまり似た顔にはならなかった。結果、顔がやや小さくなって、よく見るとバランスが悪い。

バイヨンの本尊仏の顔は、他のクメールの仏像とは異なった独特な表情をしている。バイヨン様式の彫像は、比較的形式化を逃れ、神格化された人物の個性を直接的に表現しようとしているものが多い。ただ、この本尊仏の表情は、ただ単に、こうした自由な表現性の賜であったというわけではないようで、「個性」がみとめられない、神秘的なやや硬直した顔でもある。つまり、バイヨン期に多い、自由な表現力と、それ以前の硬直化した様式美との中間に位置しているように見える。

その微妙な感じは、やはり彫刻家の創作力に頼るものではなく、正確にオリジナルをコピーすることで得るしかないように思われる。

 

さて、レプリカを作成する一番の目的は、オリジナルの本尊仏において困難であった移動を容易にするためである。ということで、レプリカはいくつかの小材を組み合わせることで、移動や組み立ての労力が軽減される。

できるだけ目立たず、かつ設置後に安定し、十分に各部材が軽量化できるサイズと組み合わせの方法を考える必要がある。

バイヨン寺院の本尊仏、通常のクメールの石仏と比べてかなり大きなものである。

全高4.7m、下部1mの台座は切石を積み上げて構成されているが、その上のとぐろを巻くナーガの全体と座仏像の全ては砂岩一材よりなっている。

彫像は全体で約15トンという重量が概算されている。上部の一材だけでも10トンは下らない。

 

トルーヴェがこの石仏を発見した物語(その2)で紹介したように、この仏陀像は、複数の部材に破壊された状態で発見された。おそらく、当初は一材であった仏陀像とナーガは、大きく3材に破断しており、その他にも各所が小さな石片として砕けていたようである。

これがフランス極東学院によって接合、修理され、最終的に王宮前広場近くのテラスに移送、そして仏像を保護するための覆屋が敷設された。それから70年以上の月日が流れて今に至る。

 

この本尊仏をバイヨン寺院に復位したいと願っているが、しかし実際のところ、この石仏はこのように大きく、重い。これを複雑に入り組み、急な勾配の階段に阻まれたバイヨン寺院の中央まで運び上げることができるのか?ここでは、その難題に仮想的に取り組んでみたい。

 

1.本尊仏の原位置からの移動

覆屋の天井とこの石仏のナーガの頂部とは、ほとんど隙間が無い状況である。また、本尊仏が仮安置されたテラス周囲にはラテライトの周壁が巡らされている。

こうした条件にあるため、重機によって本尊仏を吊り上げることはできない。また、周囲に足場を組んで、滑車などによって吊り上げるスペースもない。

一つの可能性は、周囲に組んだフレームに10トンクラスのジャッキアップ数台を周辺に設置し、本尊仏の下半身をバランス良く持ち上げる。ここで、もし台座と一材よりなる上部のナーガ+仏陀の縁が切れて持ち上げることができたら、そのまま固定しておき、下方の切石積みよりなる台座を個別に解体する。

その後、仏陀像をテラス上にどうにかして下ろす。この時に、どうやって転倒しないようにバランス良く仏陀像を下ろすのか、難しいところ。

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その後、これをテラスから下ろす際にも、人力での移動は厳しいことが予想される。確実な方法は、周壁の一部を解体し、重機を内部に持ち込むことである。ただし、カーゴトラックやミニクレーンではスペックが足りないため、ラフタークレーンの出動が求められる。

 

ようやく、こうして吊り上げて、近くに待機するトラック上に積み込み、彫像の修復現場へと移動が完了する。もちろん、一度解体した周壁を再構築するのを忘れてはならない。

 

 

 

2.彫像の修復

発見された当時の、バラバラになった各部材毎の写真や図面が残されていないため、彫刻各部がどのようなパーツに破断していたのか定かではない。彫像には接合の石目地が走っているが、どことどこの線が繋がって、どこまでが一材であるのかどうか・・・など、外観からは確かなことは判らない。

修復にあたって、ベストなのは、過去に接合された各パーツをもう一度解体した後、再び修理して組み直すという方法である。もし、これが可能なら、バラバラにした各パーツ毎にバイヨン寺院内に移動することもできる。

さて、当時の接合処理にあたっては、鉄筋などが内部に配されている可能性が高い。こうした配筋を確認するために、電磁波レーダーで調査したところ、光背部に少なくとも4本の鉄筋が使用されていることが確認された。あるいは、5本であるかも知れないが、もう一本の有無はレーダーの画像から正確に読みとることはできなかった。この調査に用いた計器は、曲面での使用には限界があるため、仏陀像前面の複雑な形状にある部分は十分な確認は困難である。

しかし、重要な点は鉄筋が使用されていたことが確認されたことにあり、このために、修復の難易度はかなり高まったと考えて良さそうである。

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この彫像の修復のポイントは次の三点。

a) 接合箇所の目地充填モルタルを交換し、石材に影響をあたえず、また見た目にも違和感のないものに修正する。

b) 彫刻表面の欠損箇所を補填しているモルタルを交換する。石材よりもかなり暗い色のモルタルが使用されているため、これを交換することで見栄えはずいぶん改善されることが期待できる。

c) 内部接合の鉄筋の交換。ステンレススチールやカーボンファイバー製のピンに交換することで、より長持ち、石材にも優しい材料となる。

ただし、各パーツに解体することができなかった場合にはaとbのみの処置となり、またaについてもどこまで充填材の交換ができるかは確かではない。

もしも,解体ができ,かつ組み立て処理を中央塔室内でできるとすれば,この後の移動作業は各パーツ毎に行う可能性も得られる。

 

3.バイヨン寺院中央祠堂への移動

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これが一番の難題である。大きなハードルは、

①外回廊をどうやって越えるか?

②内回廊をどうやって越えるか?

③中央テラスにどうやって引き上げるか?

④中央テラス上をどうやって移動するか?

 

⑤狭い中央塔群の室内をどうやって移動するか?

⑥狭い中央の部屋でどうやって据え付けるか?

つまり、全ての行程が大きなハードルなわけである。考えられる可能性は以下の通り。

 

まず、なんらかの素材で石仏を養生する。移動中にぶつけても、落としても大丈夫なような保護をする必要がある。石仏そのものが重いので、さらに重くなってしまうような素材は避けたい。発泡ウレタンのようなもので周囲を包んでしまうのが良いかも知れない。

 

①外回廊西側の外ギリギリに設置したラフタークレーンで、外回廊の内部に吊り上げて移動する。と、いう方法がとれれば楽だが、実際には、外回廊の基壇に設置したクレーンから壁体の内側までは約15mの距離があり、この場合、当事業で所有している30tクレーンであっても3.8トンまでしか吊り上げることができない。10トンであれば、だいたい8m程の作業半径しかカバーできない。このため、外回廊の基壇の上に載せるのが精一杯であり、そこからは西門を通過して移動しなくてはならない。この時、おそらく外回廊西門から内回廊の西門外側には足場を組み、内部に向かってやや傾斜をつけた平らな面を作った上で、コロを使って石材を移動することになるだろうか。

 

091019_03.JPGのサムネール画像 091019_04.JPGのサムネール画像のサムネール画像②内回廊を越えるとの③中央テラスに上げるのは、一つの作業と見なした方が良さそうだが、これは相当な難題である。内回廊西門から中央テラスまで一直線の急勾配の階段を上げることはまずできない。特に内回廊西門を通過して、テラスの階段に差し掛かったあたりの、狭いスペースではとても大がかりな作業は難しい。

 

          091019_07.JPGのサムネール画像          091019_08.JPGのサムネール画像のサムネール画像

一つのアイデアは、内回廊の外側からこの回廊の屋根を越えてテラス上面を繋ぐ、大規模な足場を架けてしまう方法があろう。足場の上には5tクラスの滑車を数台設置してこれで徐々に吊り上げる。恐ろしいのは、内回廊の屋根の上に架けられた足場を移動する作業だろう。果たしてこのアクロバティックな移動が実現するのかどうか。

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④中央テラス上の移動。やはり水平面での移動はコロを使った移動になるだろうか。テラス上には土を詰めた土嚢袋を敷き詰め、その上に鉄骨でレールを敷き、その上をコロを転がすように移動していく。

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⑤中央塔群室内には西側の副塔から入る。やはり室内は土嚢袋を何重にも敷き詰め、水平に配置したレール上を転がしながら移動する。仏陀像の横幅は最も小さいところで1.3m。室内の扉の幅もほぼ同寸。少しでもぶれたら、壁体にぶつかってしまうし、塔にとっても石仏にとっても危険な作業。

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⑥おそらく中央の部屋に据え付けるのが最も困難な課題。これまでの過激な場面は見られないだろうが、地味に難しく、慎重な作業が求められる。狭い室内は、本尊仏が移送されてきた段階ではすでに床面の整備を終え、十分な基礎が準備されている必要がある。これについては、また別のところで説明する必要があるが、とにかく、構造的に現状の床面上に直接仏陀像を設置するともたない危険性がある。本尊仏の上部一材は、切石積みの台座の上に据え付けられるが、おそらく台座を先に据え付けておいて、その状態で上部の一材を持ち込むと、狭いスペースで詰まってしまうことが予想される(厳密にシミュレーションする必要があるが・・・)。そのため、まずは、仏陀+ナーガの一材を室内に運び込み、それから室内に設置した足場か、なんらかのフレームによって室内上空に吊り上げておく必要がある。その後、室内には台座の石材を運び込み、新たに強化した床面上にそれらの台座を配置する。そうして安定した台座ができたら、その上に吊り上げていた仏陀像を下ろして据え付けることになる。

 

これでようやく安置完了。。。

 

このままでは、背の高い仏陀像の上半身は暗闇に消えてしまうので、軟らかい照明をあてる方が良いだろう。太陽電池で照明の電力は充電しようか、あるいは、ロウソクの光でも良いかも知れないが、メンテナンスが大変なことが予想される。また、仏陀像には木製の天蓋を架けたい。コウモリの糞尿から身を守るため、そして何より御本尊の格に見合った調度を施したい。

 

さて、これら一連の作業。ベターな解法が見つかる可能性もあるだろうが、いずれにしても難事業であることは間違いない。相当な準備とそれなりのリスクを負って、再安置することができるかどうか。

 

 

中央塔の地下から発見された本尊仏は,果たしてどんな運命を辿り,今に至ったのであろうか?

 

まず,もう少し正確に本尊仏が発見された時のことを当時の作業記録をもとに確認しよう。

トルーヴェは1933年8月に発掘調査を開始した。そして,床面からの深さ1~5mにおいて,彫像の大半をなす石片を発見している。また,発見された際には,石片の一部に金箔が貼り付いていたようで,彼はこの彫像が当初は金箔で覆われていたのではないかと推測している。

 

さらに掘り下げ作業は継続され,最終的に深さ14mで発掘調査を終える。この深さにいたって地下水が湧き出し,掘り下げを断念せざるを得なかったのである。さらに,この発掘調査の底からさらに1mの深さでボーリング調査を行ったが,軟らかい土層しか確認されなかったことを彼は記している。

 

この掘り下げ作業の途中,深さ12.5mでは,本尊仏の基台の部材を2点と,本尊仏の手の一部となる石片2点を発見している。また,同12.5mの深さで,北側を除く3方向に水平のトンネルが掘られ,およそ主室の壁体と同形であることが予想される位置に,なんらかの石積みを確認している。

 

実際にこの作業を指揮していた彼の報告の中で,特に興味深いのは,以下の記述である。

 

「プラサート・アク・ヨムとバイヨンの東西断面について考察すると,プラサート・アク・ヨムの地下室は,ピラミッドの基壇のレベルよりかなり下方に位置している。もし,バイヨンに同様の法則を適応するのなら,この寺院の基壇の下にも地下室が存在しえる。ところで,この原始的な堀り方の竪穴は,理由なく作られたわけではない。従って,地面の下には現在は盗まれてしまっているが,貴重な宝庫が存在したはずである。宝庫は,砂岩ブロックの間,または私が想定するように地下の部屋の中にあるに違いない。従って,はっきりと確認するためには,私が掘り始めた縦穴をさらに掘り下げる必要がある。しかし,現在の地下水レベルがその最低位まで下がるには乾季を待たなければならない。地下水が最低位まで下がれば,作業は容易で危険は免れ得るであろう。」

 

さて,地下室の有無についての問いかけについては,わきにおいておき,まずはこの発掘調査の結果から生じる問題について考えたい。

 

一つ目は,主室の地下に当初は煙突状の円柱あるいは四角柱の石積みの構造があったのかどうか?

また,建立当時,この構造の中は空洞であったのか,あるいは土か何かで埋められていたのかどうか?

という問いである。

 

トルーヴェは地下12.5mの横穴の先で,なんらかの石積みの壁にぶち当たっている。それは,ちょうど壁体に囲まれた室内と同じ大きさの筒状の構造が,そのまま地下に連続しているような位置にあった。

つまり,そこから推測されるのは,巨大な荷重を受けている壁体は,床面の下でもそのまま石積みが連続して地下の支持構造体となっている可能性である。

 

しかしながら,この可能性については,2008年から今年にかけて実施した中央室内の発掘調査によって否定された。壁体の下にはラテライトが一層か,場所によっては二層確認されたものの,その下は版築土であり,地下に続く石積みは認められなかったのである。(ただし,説明は混乱するが,現在修復工事を進めている南経蔵で発見された基壇内部のラテライト造構造体は,床面直下の50cm~1mで一度版築土が挟み込まれて,その下から再びラテライト積みが連続しており,同様の構造が中央塔にも適用されているとすれば,我々が実施した主室壁体下のラテライト層直下で実施した横穴探査では,ちょうどこのラテライトによってサンドイッチのように挟み込まれた版築土層を突いてしまった可能性が残される。)

 

もう一つ,地下が空洞になっていた可能性については,かなり低いものと考えられる。というのも,筒状の石積みがもし壁体下に続いていたとしても,この内側全体が空洞であったとしたら,室内に当初安置されていた大きな仏陀像を,床面のスラブだけで支えることはできなかったであろうし,また,地下の筒状の石積みが,壁体よりも直径の小さなものであり,二重の構造となっていたとしても,その内側の筒を形作る石材は相当な数を要するもので,過去の発掘の際に少なからず発見されていても良いと思われるからである。

 

つまり,当初から室内直下に縦穴のような空洞は存在せず,そこは土によって密実に版築されていたものと考えて良さそうである。

 

さて次の問は,ちょっと唐突だが,この盗掘団は何者だったのだろうか?という疑問である。

 

主室内直下に縦穴がなかったと考えられることから,本尊仏の一部が深さ12.5mから発見されたということは,過去にこの深さまでは盗掘されて掘り下げられていたことを示している。順当に考えれば,本尊仏が破壊されたときに,併せて盗掘されたものと推測される。

 

室内に安置されていた仏陀像を破壊し,側室かどこかにそれらの石片を移動する。さらに床面を取り外し,締め固められた版築土を掘り下げてゆく。どこまで掘り下げたのか,そして何か地下室のようなものがあったのかどうかは定かではないが,トルーヴェが確認した15mの深さまでは少なくとも彼らは掘り下げに成功したことであろう。そして,我々が今年2月に行ったボーリング調査の結果に基づけば,床面から深さ19mまでは同質の砂層が連続していたことから,その深さまで盗掘団は掘り下げを行ったことも推測される。

 

この時の盗掘穴の大きさは定かではないが,少なくとも地下15m以上の深さまで穴を掘り下げ,さらに掘り出した土を引き上げるためには,直径2mほどの穴は少なくとも必要であったことだろう。つまり,高さ15m,直径2mの円柱形の空洞ができるわけで,その際に掘り上げられた土量は相当なものであったことが推測される。当然,中央塔群の室内だけでは土の置き場には不十分で,中央基壇上に盛り上げられていた様子が想像される。

 

盗掘団が最下部まで掘り下げて体よく宝物を発見したか,しなかったか・・・,は定かではないものの,彼らの作業はここで終えた・・・と考えて良いだろう・・・か?

 

さて,ここまで「盗掘団」と呼んできた彼ら,もう一度質問に戻るが,果たして何者だろうか?

よく知られているように,バイヨン寺院は,当初,仏教寺院として建立された後に,ヒンドゥー教寺院に改宗された。その際,寺院内の仏教モチーフはことごとく破壊され,代わりにその多くが,リンガのモチーフに削り「直された」のである。

そう,この集団,なにも一方的な破壊集団であったわけではなくて,まがいなりにもヒンドゥー信者であったわけである。

 

盗掘団もまた,おそらくはこのヒンドゥー信者であったことだろう。つまり,彼らは,憎き仏教寺院の鎮壇具を「盗掘」したというよりも,「取り替えた」のかもしれない。

 

再び,現在修復中の南経蔵の様子をお伝えしよう。ここでは,基壇の解体中,室内中央の小さな縦穴から鎮壇具が発見された。鎮壇具は幾層かの土層に分かれて複数見つかったが,この土層を精査したところ,建設当初の鎮壇具と,後世に再びこの穴を掘り下げて安置し直した二つの異なる時代のものが確認されたのである。

それぞれの時代については定かではないが,一方はヒンドゥー教寺院としてバイヨンが改修されたときの鎮壇具であると推測される。

 

つまり,そうなってくると,中央塔の地下の鎮壇具もヒンドゥー教寺院に改宗されたときに,「再」安置したと考えても良いわけである。その場合,当初の鎮壇具は遺失しているかもしれないが,少なくとも改宗時に治められた鎮壇具は,残存していることになる。

 

「盗掘団」という名を修正して,「ヒンドゥー教信者」は鎮壇具を安置した後,再び掘り上げた土を縦穴に戻してゆく。その際,いくつかの石材は深さ12.5mまで土を戻したところで穴に落ち,そして大型の石材は埋め戻し修了間近の深さ数mのところで穴に投げ込まれた。そして,再び床面を造り,そこにはおそらくハリハラ神が安置されたものと考えられている。

 

この一連のストーリーであれば,発見された仏陀像の石片が二つの深さから発見されたことも説明ができる。

もし,「ヒンドゥー教信者」ではなくて,単なる「盗掘団」だったとしたら・・・。

それなら,おそらくバイヨンでの成功の味をしめた後,次なる標的としてアンコール・ワットを狙ったはずではなかっただろうか?

 

しかし,アンコール・ワットは1934~35年の発掘調査によって,盗掘の被害は受けていないことが確認された。実際には,この発掘調査そのものが盗掘のようなもので,調査結果を記す図面はあるものの,確かな記録がなく,発見された遺物も残されていないのだが。

 

いずれにせよ,推測に推測を重ねた中でのこの話,どこまで的確に真実を追えているのかは全く確証がないものの,やはり中央塔の地下には,何かが残されていると考えずにはいられない。

(一)

前回紹介したバイヨン寺院,本尊仏発見の物語が,細部においてまったくのフィクションであることは断り書きをするまでもなく,ご了解頂いていることと思うが,もう少し,この時代のバイヨン研究の背景を紹介しておこう。

 

バイヨン寺院はアンコール遺跡の各寺院の建立編年を考察する上では厄介な存在であった。20世紀初頭の段階では,この寺院は9世紀に建立された寺院であると考えられていた。今となっては,プノン・バケンが9世紀の第一次ヤショダラプラの中心寺院であるものと知られているが,当時はプノン・バケンの山の上など調査されたことさえなかったのである。

 

バイヨン9世紀説は,一人の美術史家によって覆される。アンコールを一度も訪れることなく,バイヨン寺院の編年に修正を迫ったことでよく知られているステルンによるものある。11世紀,アンコール・ワットの建立直前にバイヨン寺院が建立された,というのが彼の新説であった。未整備な土地に熱帯雨林という過酷な環境に身をおかずして1927年に提出された彼のこの論説は,アンコール遺跡を現地で調査している研究者にとっては,辛酸を舐める思いで受けいれられた。

 

同年1927年には,建築考古学者パルマンティエによってバイヨン寺院が複数回の増改築を経て今見る姿に至ったことが示された。また,それまで仏教モチーフはほとんど確認されていなかったバイヨン寺院において,増築によって隠されていた破風飾りに観音菩薩像が彫刻されていることが明かとなり,寺院の主尊についても物議が醸し出される。

 

ステルンの年代改訂から2年後,今度は1929年,クメール研究の大家,セデスによってバイヨン寺院は13世紀に建立されたという説が提出される。アンコール・トムの周壁の隅に位置するプラサート・チュルンの碑文の記述に基づく説であった。結局,この説が今に至る定説となるわけである。

 

また,バイヨン寺院に代わる第一次ヤショダラプラの中心寺院には,ようやく1932年にゴルベウによる航空調査で見事発見されたプノン・バケンが落ち着くことになった。

 

バイヨン寺院ではプノン・バケンが発見されたこの年に,中央塔の一部が崩れ落ちるという惨事が発生している。それを受けて,その翌年の1933年には,中央塔の上部の補強工事が行われ,そしてついに,前回登場のトルーヴェによる本尊仏発見の発掘調査へと至るのである。

 

この時期に刊行された書物や論文を眺めると,アンコール遺跡の研究はめまぐるしく更新され,本流を突き進む研究が並んでいる。今見ると,羨ましいほどに大きな発見の可能性に満ちた世界である。(一)

 

アンコールに寺院多しと言えども,その御本尊となる神像が特定されている寺院はほとんどありません。ある意味,寺院は神様を祀るための入れ物〈ハコ〉にすぎず,御本尊こそが寺院の核心であるわけですが,その核心はことごとく散逸してしまっています。

 

そんな中で,バイヨンは建立当初の御本尊が特定されているごく限られた寺院の一つです。バイヨン寺院の御本尊は,日本でいうところの東大寺の大仏に相当するような重要な彫像です。護国寺バイヨンの中央には,国家そのものの精神的・象徴的中核となるべく仏陀像が,当時の大王ジャヤヴァルマン七世と重ね合わされるように安置されていました。

 

この重要な仏陀像は,現在,アンコール・トムの王宮前広場の片隅のある小さなテラス上に安置されています。ほとんど観光客も訪れることのないプラサート・スープラの裏に,ひっそりと静かに佇んで余生を送っているのです。

090930-1.JPG私たちは,クメール帝国の核心に鎮座する国家の象徴たるこの仏陀像,あるいは等身大のレプリカを,バイヨン寺院の本殿に再安置したいと考えています。

 

 

090930-2.JPG 

註:このような文で注意書きが入るのもおかしいのですが,アンコールでは,一部の限られた人だけがおそらく目にすることができたであろう神像と同等,あるいはそれ以上に建築そのものが重要であった可能性も十分に考えられるでしょう。寺院は治世者にとって人心を握るための重要な装置であったわけで,だれでもが目にすることができる建築にこそ,意味と意匠とが傾注された・・・と想像するこtもできるでしょう。

当初の調査目的は果たして,発掘孔の写真記録や図面記録を進めています。

ボーリング調査後の室内の清掃もまた同時に進んでおり,慎重を要する記録作業と,砂まみれの清掃作業とが狭い室内でごっちゃになっていますが,しかし調査許可は今日を含めてあと2日。

なんとか急いで全てを完了しなくてはなりません。

 

記録作業の途中,一つの重大な発見がありました。

これは当初から予想していた発見で,今回主室内の北東に調査エリアを定めたのも,この発見が期待されたことによりました。

バイヨン中央塔における「ソーマスートラ」の発見です!

 

聞き慣れない言葉ですが,ソーマスートラとは聖水の排水孔のことを意味します。アンコールの寺院では,気にかけて観察すれば,たくさんの塔にこの排水孔が見られます。バイヨン寺院の中だけでもたくさんのソーマスートラを見つけることができます。

各塔の室内それぞれには,かつて台座が配され,その台座の上には神像やリンガが安置されていました。

往時の宗教儀礼の一つに,こうした御神体に聖水を注ぐという行為があったようです。嘴のような突起のついた台座が良く見られますが,これは注がれた聖水を台座上から排水するためのものなのです。

 

台座から排水されて流れ落ちた聖水は,直接床面に注がれる場合もあれば,受け皿に注がれるものもあります。その後,室内から室外へと排出されるときに,壁体や床面下の排水孔を伝って行くわけですが,それを「ソーマスートラ」と呼びます。

 

バイヨン寺院の中央塔には,以前より基壇の北面やや東よりにこのソーマスートラの出口が確認されていました。しかしながら,室内側の排水孔入口は見つかっておらず,このソーマスートラがどこに繋がっていたのか,分からなかったのです。過去に,日本修復隊の調査でソーマスートラの出口からCCDカメラを差し入れて,どこへと伝わっているのか調べたことがありました。ちょうどクフ王のピラミッドで女王の間から延びる通気孔がどこへ延びていたのか,ドイツの研究者が小型ロボットで探査したのと似ています。バイヨンではロボットが無かったため,孔が先の方で折れ曲がっているところをくねりながら通過することができず,そこで調査は終わってしまい,結局このソーマスートラの入口は今まで不明なままに取り残されていたのです。ただし,このCCDカメラの調査によって,一つ明らかになったことは,孔の中の鑿痕が上から下へと刻まれていることでした。つまり,孔は石積みが終わった後に掘られたものではなく,建物の建造当初から計画されたものであることが分かったのでした。

 

このソーマスートラは多くの場合,シヴァ寺院に見られます。そのため,ソーマスートラが見つかる場合,この寺院がシヴァ寺院として建立された可能性が窺われます。つまり,仏教寺院として建立され,後にヒンドゥー教へと改宗されたとされるバイヨン寺院に最初からこの孔があったことは不自然だということになるのです。しかしながら,ソーマスートラの存在は,100%,シヴァ寺院を示すというわけではなく,仏教寺院などにも見られないわけではありません。ということで,やや曖昧な状況を残してはいるのですが,ソーマスートラの存在は建立当初の宗教を考える上で,重要なものなのです。

 

今回,ソーマスートラが明らかに主室から発していることが確認されました。バイヨンの中心祠堂の直下から過去に出土した仏陀座像の台座には排水のための嘴は付いていません。

 

この事実をもってして,短絡的にこの仏陀座像が当初の主尊ではないとは言い切れませんが,小さな疑問符が付いたことになりそうです。

 

やはりきれいさっぱりと調査を終えることはできないようです。

一つの疑問が新たに生じました。(一)

 

*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成と,科学研究費と文部科学省科学研究補助金「アンコール遺跡における出土貿易陶磁器の様相解明」(研究代表者 山本信夫)の協力を得て進められています。

バイヨンの中央塔は,周囲の地面のレベルより約13メートルの高さに建てられています。中央塔自身は高さが約40m。総石積みの塔状の建物ですから,きわめて大きな荷重が壁の足下には集中してかかっています。解体・発掘調査は,この壁際を掘り下げるため,あまり範囲を広げることはできず,また深く掘り下げることも危険が伴います。

ですので,今回は調査に要する最低限の範囲と深さまでの発掘調査に留めました。壁体最下層の砂岩層の下には,ラテライト層が1層配されています。このラテライト層の直下は既に版築砂層です。

ただ,今回の調査の目的は,この版築砂層が室内側だけに見られるものなのか,あるいは壁体の奥の方ではラテライトなどの石材が直下にはさらに続いて配置されているのかどうかを確認することにありました。

 

そこで,この調査ではすでにお馴染みとなった,水平のハンドオーガー調査を実施しました。

以前の調査では掃除機の筒を改良して使用しましたが,今回は純正の調査用のオーガーを利用しました。

 

一本目のハンドオーガーは59cmまで水平に貫入したところで,石材にあたって止まりました。

やはり,何か奥の方では支持構造体があるのかもしれません。

 

二本目のテスト。

今回は先のテストの脇30cmのところで実施しました。かなり堅くしまった版築砂層ですので,なかなか思うようにはオーガーが入っていきません。屈強な作業員が滑り止めの軍手をして,オーガーを回転させながら,少しずつ削り進めていきます。オーガーの直径は3cm程ですが,10cm貫入するのに10分ほどは四苦八苦します。

一本目の59cmはクリアしました。さらに奥へと掘り進んでいきます。

1mもクリア。かなり入っていきます。作業員もすでに何度も交代しています。そして1.5m。すでに中央塔主室の壁の裏まで到達しました。

最終的に169cmまで貫入!そこで何かにあたって止まりました。

 

このテストで,明らかに壁体の直下には支持構造体が無いことが判明しました。

これまでのテストでは不規則な深度で,途中で止まっていましたが,おそらく版築砂層中の割栗石などにぶつかっていたものと考えられます。

 

これでようやく,バイヨン中央塔が「砂上の塔」であることが明らかに確認されました。(一)

 

 

*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成と,科学研究費と文部科学省科学研究補助金「アンコール遺跡における出土貿易陶磁器の様相解明」(研究代表者 山本信夫)の協力を得て進められています。

バイヨン中央塔の地下構造に関する調査としては,昨年から次のような調査を実施してきました。

2008年8月 中央塔主室内北西象限における発掘調査

2009年2月 中央塔西前室および第6塔(西塔)における発掘調査

2009年3月 中央塔主室内におけるボーリング調査

 

こうした一連の調査に引き続き,中央塔主室内北東象限において,3月23日から発掘調査を実施しました。これから三回に分けて,この調査の経過を報告したいと思います。

 

3月23日,その前の週に実施したボーリング調査に引き続く発掘調査となりました。遺跡群の管轄組織であるアプサラ機構から許可されていた立ち入り禁止を伴う調査期間は,残り4日間と迫っています。今回は発掘調査の実施を見合わせることも検討されましたが,再び調査許可を得るのはまた困難が伴うこともあり,短い日数ではありましたが,作業員を増員し,これを実施する運びとなりました。

 

今回の調査の目的は非常に明確なものでした。つまり,昨年8月に実施した主室内北西象限では壁体直下に支持構造があるか否かが十分には確認されず,また今年2月に実施した西室でもこれについて確実な結果が得られなかったため,再度,別のエリアで壁体下の構造を確認しようとするものです。

 

ボーリング調査が終わったばかりで,ボーリング機器からの養生のための土嚢袋が敷き詰められている室内をクリーニングしながら,床石の解体を開始しました。

昨年の発掘調査で,すでに床石下の状況については把握されていたので,作業は速やかに進められ初日にして既に最上層の床石,第二層の端材層,そしてその下の埋め戻しも必要な深度まで掘り下げることができました。(一)

 

*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成と,科学研究費と文部科学省科学研究補助金「アンコール遺跡における出土貿易陶磁器の様相解明」(研究代表者 山本信夫)の協力を得て進められています。

3月16日より5日間,バイヨン中央塔ではボーリング調査が実施されました。

 

この調査は2008年8月に実施した解体発掘とハンドオーガーによるボーリング調査と2009年2月に実施した西塔内の発掘調査に続いて行われたものです。調査には地域地盤環境研究所の岩崎好規先生と,肥後地質調査の福田光治先生が参加され、現場管理にあたりました。

 

昨年8月には,中央塔の地下構造を解明することを目的としてハンドオーガーにて床面より8.41mの深さまでボーリング調査を行いました。しかしながら,人力作業でのボーリングはこの深さで限界となり,それ以深の構造は判らないままとなっていました。

 

今回は,プノンペンより運ばれてきた小型のボーリング機械を,中央塔の室内に設置し,より深い基礎構造を探ることが目指されました。

 

3月第2週中に,中央室内の現本尊は前室に移動され,立ち入り禁止のフェンスの設置や,ブルーシートによる覆屋の設置などの準備が行われました。

3月15日にプノンペンより運ばれてきたボーリング機械は,16日に中央塔まで運び上げられ,設置はほぼ完了,一部狭い室内形状に合わせるために,機械の一部を町工場で加工するなどの作業が生じましたが,17日の朝10時40分から試運転に入ることができました。

 

ボーリング機械は貫入ロッドなどを上下するためのモーターと,スクリューオーガーを回転させるためのモーターの二つが取り付けられていますが,当初はモーターの調子が悪く,モーターからの真っ白な排気が室内に充満し,またひどい振動で塔への悪影響が心配されました。機械の下には振動吸収のための土嚢袋が設置されていましたが,それでも不安が持たれるほどでした。そのため,吸気のためのダクトを急きょ設置し,また,塔室内の壁体の変形が生じていないことを観測するために,レーザー変位形が取り付けられました。

 

昨年,ハンドオーガーにてボーリング調査をした穴には,塩ビ管によるケーシングを残していましたので,これをガイドにボーリングロッドを挿入しました。

 

ボーリング調査では,貫入強度試験とオールコアサンプルを目的としました。

コアサンプラーにて自然落下の標準貫入試験を50cm実施した後に,孔壁整形のためにスクリューオーガーを同深度まで貫入するという作業を繰り返しました。

途中,ノッキングヘッドが破損するという事態に見舞われましたが,溶接してなんとか再使用することができました。

 

調査は当初より床面下20mが目的深度と設定されていましたが,19.5mの深さまで到達することができ,ほぼ当初の目的を達成しました。

 

また,このボーリング孔には将来的に地下水位の計測ができるように,塩ビ管を地下16mまで埋設しました。

 

調査結果についてはここでは詳しくご紹介できませんが,近い将来,公式な調査報告書にてお伝えしたいと思います。(一)

 

*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成を得て進められています。

中央塔の上部荷重を支えている壁体の下の構造を確認することが、今回の発掘調査の最大の目的でした。

中央塔西室でこれは断念し、第6塔でこれを確認しようとしましたが、先日、壁体足下の敷石を解体したところ、やはりこれ以上の解体は難しいと断念し。。。

しかし、今日はこの掘り下げてきた発掘穴より側面に水平ボーリングを入れて、これを確認することに挑戦しました。

人力のボーリング、ハンドオーガーです。

通常、ハンドオーガーの専用のスティックがありますが、これは長すぎて、かがむのも一苦労な狭い発掘穴の中では使えません。

そこで、今回は掃除機の吸い込みパイプを改造して、手製のスティックを準備しました。スティックの先を波形に切り込んで、先端で掘削できるようにしたのです。これで掃除機は通常どおりには使えなくなりました。

まず、穴の北面に一本、このスティックを差し込みました。

しかし結果、たった15cmでラテライトにあたり、断念。

こりずに、その脇10cmほどで再挑戦しましたが、やはり15cmでラテライトにはばまれ断念。

しかしこれに懲りず、再びその脇で三度挑戦。

堅い土層にはばまれて難航しましたが、結局1.5mの深さ(水平長さ)まで差し込まれました。この長さは第6塔の壁の直下よりも大きく奥まで貫入しているものです。つまり、この結果から壁体の直下にはラテライト層はないものと推測されたのです。

南面でさらに2本、ここでは54cmと78cmでラテライトにあたりました。壁体直下にほぼ相当する長さです。

さらに東西面で実施しましたが、途中で土中の栗石にあたったりして掃除機のパイプがもつ最大限の能力を発揮できずに終わりました。

最初に実施したハンドオーガー2本の15cmという最短記録のエリアでは、その後、側壁を切り崩してラテライト自体を確認することとなりました。すると、ラテライトが4材、一列に積み重なっているのが確認されたのです。

これは全くランダムな構造です。たしか、EFEOが過去に第12塔内で縦穴を掘り下げた調査でも同様に土中から不規則な石材が検出された記録が残されています。アンコール・ワット中央塔の発掘調査の報告の中にもやはり同様の記載と図面が見られます。

こうした不規則な土中の石積みはいったい何を意味しているのでしょうか?(一)

 

*本調査は㈱竹中工務店の研究助成を得て進められています。

当初、今回の調査はできるだけ必要最小限の労力で効果的に必要箇所を確認して終了しようと、いうことで始められました。

しかし、発掘調査の常。そんなに事は容易には片づきません。常に期待と予想を裏切ってくれます。

 

そんなことで、すでに10日目に入ってしまいました。

 

室内中央の盗掘孔を掘り下げます。ますます白色の栗石が多くなり、変わらず濃い褐色土が続きます。上層と異なり、この土は均質で埋め戻しの際に利用されたとは考えにくいのですが、それにしては土が緩く創建当初のものともまた考えにくい状態です。

掘り下げが進み、壁が大きくなってきましたので、側面をクリーニングしていくことになりました。床面となる砂岩の下層のラテライトの下にはもはや石材はないようです。

先日確認されたのと同様に、やや水平に拡張すると堅い土が現れます。一部には栗石が混じっていますが不規則です。この壁、垂直に立っているわけではなく、下方に行くほど広くなっており、全体としてオーバーハングするようです。この勾配がどこまで続くのかは分かりませんが、あまり下層で広げてしまうと、発掘穴そのものが崩れてしまう危険性もあります。

堅い壁体の表面を広げていきますと、軟らかい中央部の土とこの壁の間には薄い汚れた黒い層が挟まっていることが確認されました。つまり、ここからは、堅い壁体が一時期露出されたままに放置されていた時代があったことを推測することができます。

このため、中央部の白色の栗石混じりの軟らかい土は、盗掘後にやや時間がたってから梅戻されたものである可能性が高まってきました。(一)

 

*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成を得て進められています。

 

出土品、水晶にさらなる期待が高まり、北西隅の柱穴の現状のレヴェルから底を断ち割って土層状況の確認、ならびに下層の遺物の検出を試みましたが、残念ながらそれまで。

この柱穴からはさらなる発見はありませんでした。

再び室内中央の盗掘孔の掘り下げ調査にとりかかります。床面からの深さ120cmあたりから、白色の栗石が多く混ざるようになり、それまでとは様子が変わってきました。また、穴の底は濃い褐色土が続いていますが、壁側面をやや広げると、かなり締まった白色がかった土が見えてきます。

山中式硬度計で確認したところ、穴の中心の緩い土は1kg/cm2ほどであるのに対して、側面は9~30kg/cm2と相当締まっています。現在修復を進めている南経蔵の基壇内部の再構築の版築土と同程度の強度が確認されたのです。

さらに、第6塔の壁体直下の構造を確認することを目的として、盗掘孔と壁体の間の敷石を取り外し、解体することを検討しました。中央塔西室で確認されたように、最上層の下に大きな石材が敷き詰められているならば、この狭い空間で石材を壊さずに解体することはほぼ不可能です。

調査終了間際に、北壁の手前の敷石を取り外しました。

残念。再び下層には大きな石材が、もはやこれ以上の解体は絶対阻止、とばかりに現れました。。。(一)

*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成を得て進められています。

 

2009年2月に実施した中央塔西室での発掘調査に引き続き,3月からは中央室にてボーリング調査を予定しています。発掘調査についての報告が尻切れトンボになっていましたので,新たにボーリング調査を実施する前に,一度まとめておきたいと思います。

 

 

2月23日より約10日間かけて以下のとおり,発掘抗の埋め戻し,解体石材の再構築の作業を行いました。

 

発掘抗の底に、「2009JASA」の刻印を押した鉛板を置き、将来的に再発掘調査があった際の目安としました。また、底には発掘時に掘り出した土とは異なる砂を敷き詰め、やはり将来の目印としました。昨年の中央塔の埋め戻し時と同様に,中央には塩ビ管を設置し,将来的にボーリング調査を実施する場合に,再発掘を省くための処置を施しました。解体時に劣化・破損していた石材は修復し、それらの石材の再設置も行いました。暗い室内で床面にでこぼこがあると危険なため,柱穴や台座周辺の窪みにはある配合にもとづいた土を詰め,平らにしました。

 

 

今回の調査は当初の目的からはやや外れて,予想外の経過をたどりましたが、いくつかの重要な事実と知見が得られました。それらを下にまとめます。

 

 

1.中央塔群の壁体直下には石材による支持構造体は存在しない可能性が高まった

 

これについては、昨年夏の調査で中央室内でも一部で確認されたことですが、今回は西副室である第6塔の北壁にて同様の結果が得られました。また、東西の扉開口部直下においても、支持構造体は認められず、これは中央室の西扉開口部の結果と整合的でした。

この点については,中央塔の基礎構造を考える上できわめて重要であるため,さらに,3月のボーリング調査時に中央室の北東エリアにて追調査を予定しています。

 

 

2.地下にはラテライトの構造体がランダムに配されている

 

西副室の発掘孔の北側壁ではラテライトが5材、柱状に積み重ねられているのが確認されました。発掘孔内の他の面では認められず,こうした石材は床面下に不規則に配されているように推測されます。1934年にEFEOの保存官マーシャルによって行われた塔12(中央塔群東側の塔)内での発掘調査の記録からも,やはり地下のラテライト造が南北で異なった配置をとっていることが認められます。

このことは何を意味しているのでしょうか?ただ単純に建設工事が粗雑であったということを意味しているだけでしょうか?その可能性も否定できません。

しかしながら,たとえば,今に見る中央塔群の建設前に前身の遺構が存在したことも想像できます。また,建設途中で計画変更があった可能性も推測しえます。

バイヨン寺院が増改築を重ねていることは,パルマンティエによって指摘されて以来,何度となく報告されていることですが,近年フランス人研究者クニン・オリビエが,これについて精査を加え包括的な整理をしました。

第一期には伽藍中央の背の高いテラスだけが構築され,その上には現在の中央室だけが配されていたと彼は考えます。この最初期の復元イメージにはいくつか疑問視される点が残りますが,中央東室(第2塔)の床面に残る柱穴の一部が上部壁体の下にのみ込まれているような状況からすれば,現在の姿とは全く異なった第一期の建物が存在していた可能性は十分に考え得るところです。

 

 

今回の調査からでは不明瞭な点も挙げられます。

その一つが、塔地下の鎮壇具の設置箇所についてです。

 

盗掘によって攪乱された土砂の中から,数粒の水晶が発見されたことにより,ここ西副室内にかつて鎮壇具が納められていたことは明らかといえるでしょう。

しかしながら,鎮壇具などが安置された塔の地下の明瞭な構造は確認することができませんでした。

 

室内に配された台座直下には円形の穴が穿たれていましたが、この直下には割栗石混じりの非常に緩い砂が盗掘孔に埋められていました。この緩い砂は、深さ120cmまでで,その下層では土の色は異なっており、また割栗石も白色のものとなったため、何らかの土層の違いがあることは明らかです。単純に考えると,この深さに鎮壇具が配されており,その下は建設時の土砂,上は鎮壇具が安置されていたものの,それらが盗掘された後に埋め戻された土,であったとすることができます。近年,修復工事中に南経蔵で発見された鎮壇具もおよそこの程度の深さで発見されました。

 

 

この120cmよりも下層では、砂がきれいで割栗石も分散して混ざっており、盗掘後にいい加減な作業で埋め戻されたようにはとても思えないのですが、しかしながら,砂自体は相当緩んでおり、盗掘孔側面の明らかにオリジナルな版築層とは異なっています。(ここで検出した割栗石は,流紋岩で火山灰系のたいへん目の細かいもので、この周辺ではクロム山に良く見られるものです。また気になるのは,この種類の石材の割栗石は中央塔直下の発掘からは認められませんでした。)

通常,塔直下の土層は堅く締め固められており,ここで確認されたような緩い土とは異なっています。

 

そのため,この塔内の盗掘孔はこの120cmの深さよりもさらに下方へと続いていると見ることもできます。当初は堅く突き固められていたものの,一度盗掘によって掘り上げられた土が,穴の中に再び投げ入れられた際に緩んだものと考えられるのです。

 

オリジナルの版築層の壁面を観察してみると,深さ約120cmあたりで小さな段差がみられます。ですので,このレヴェルで鎮壇具などが安置されていたなんらかの構造や仕組みがあったことがここからも推測されるところです。

このように考えると、過去の盗掘者はこの120cmの深さで,安置物を発見したものの,その下方に別のものがあることを期待してさらに掘り下げの作業を続けたのではないかと考えることができます。

 

盗掘者達はバイヨン寺院の各塔で隈無く盗掘を行っていたようですので,そうした期待は,他の塔での経験をもとにした確信に満ちたものであったものかもしれません。

 

各塔の中では建設工事にまつわり,地鎮祭に始まる様々な儀式が各建設の段階であったと想像されます。つまり、塔の地下には何段階かに渡ってそうした儀式に用いた奉納物が納められていることも考えられるでしょう。

 

ただ、今回の盗掘孔は歪んだ円形をしていますが、径の小さなもので、一人がようやく中に入れる程。この小さな穴の中で、それほど深くまで掘り下げられたかどうかは疑問が残るところです。

 

と、だんだんと考察が混乱し、思考が錯綜していきますが、こうした疑問を常にはらみながら、調査は一つずつ終わって、次なる段階へと進むようです。

最終的には、公式な報告書にて整理された調査結果をご紹介いたします。(一)

 

*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成を得て進められています。

 

カンボジアはこのところ毎日どんどんと暑くなっています。昼過ぎの太陽は凶器と化しています。

 

今日は第6塔の盗掘孔の記録から始まりました。断面図や平面図が作成されました。

その後,台座の四隅に穿たれている天蓋を支えていたと思われる柱穴にて発掘調査を行いました。バイヨン寺院の各塔に設置されている台座の四隅にはいずれもこうした柱穴が残されています。各隅に1つずつの穴がある場合,2つずつ、3つずつの場合,また楕円形の穴が斜めにある場合など,いくつかのパターンがありますが,ここ第6塔では,楕円形の穴が台座の四隅に穿たれています。

 

 

090212.JPG柱穴は堆積土が砂岩の端材などを伴い詰まっています。それらを上面より少しずつ削り取りながら発掘を進めます。基本的には堆積土だろうということで,それほど注意されることはありませんでしたが,南東隅の柱穴の底にさしかかったとき,何か鈍い感触がありました。色も,それまでの暗い茶色から白みがかった黄褐色です。少し取り上げてみると,ずっしりと重みがあって,ラテライトとも異なります。どうやら鉛のようです。丹念に底をクリーニングしてゆくと,不整形ではありますが,穴の底に張り付くようにして鉛が見られました。

 

過去に,サンボー・プレイ・クック遺跡群の北グループで塔室内の発掘調査をした際にも,やはり扉の軸ずりの穴の底から鉛が検出されたことがあります。その時は,現場で鉛を溶かして穴に流し込んだものと考えました。それによって扉の回転をスムーズにしたのではないかと推測したのです。いくつかの塔の扉の軸ずり穴から同様に鉛が確認されましたので,その推測は正しいのではないかと思われます。

 

ただ,バイヨン寺院他,アンコール遺跡群からは同様の痕跡はこれまで認められていません。過去にバイヨン北経蔵の解体修復工事を実施した際には,石材間を連結する「かすがい」のまわりから鉛が発見されたことがあります。かすがいそのものは純度の高い鉄が使われていました。クメール建築で発見されているかすがいは,大きさや形状がそれぞれで不規則です。同じモールドを使って規格的に造られたわけでありません。ですので,おそらく準備されたかすがいの一つを当時の工人は手にとって,現場でそのカタチにあわせて,石材を削り込んだものと思われます。ただ,当然,鑿で削り込んでも,精緻にかすがいと同じ形状の欠き込みは造れません。そこで,かすがいを穴にはめ込んだ後,石材との隙間に鉛を流し込んで固定したものと考えられます。

 

今日では,遺跡群内のかすがいの多くは盗掘されてしまっています。かすがいのありそうな石材に穴を彫って,抜き取られてしまったのです。また,近年の修復工事では,解体の際にかすがいを填めていた穴だけが残り,かすがいそのものは残されていないケースもよく見られます。それらは過去に解体された痕跡はないのですが。研究者によっては,石材を積み上げて,現場で削って形状を整えたりする際に,石材が動かないように一時的に固定し,作業が終わってから取り外したのではないかと考える人もいます。

 

さて,柱穴の発掘はさらに進みます。北西隅の柱穴は,ちょうどいい大きさの石材で塞がれていました。まずはこの石材を取り外します。石材の下面には壁体のモールディングの彫刻が施されていましたので,どこかに散乱していた端材を転用したものであることが明らかです。ただ,あまりにもしっかりと嵌め込まれていたので,人為的に設置された可能性も高そうです。

 

この石材の下には再びの堆積土。汚い黒い土が溜まっています。先の柱穴では鉛が見つかったこともあり,今回はさらに慎重に掘り下げていきます。

 

およそ20cm掘り下げたところで,土の中に何かかすかに反射する小さな光が目に入りました。取り上げてみると薄曇ったガラスのような破片。暗い室内から扉の外の光にかざしてみると,不規則に面がとられている結晶であることが分かりました。クリスタル。『水晶』です!

 

暗闇で重く沈んでいた気持ちが突然高ぶります。さらに柱穴を掘り下げてゆくと再び水晶の粒が。最終的には5粒の水晶が出土したのです。

 

いずれも汚い堆積土に混ざっていましたので,これが安置されたものであったのか,それとも盗掘で取りこぼされて,ここに残されたものであるかは定かではありません。ただ,柱穴を塞いでいた石が丁寧に収められていたことを考えると,後世に鎮めの儀式などがここで執り行われた際に納められたことを想像することもできるでしょう。(一)

 

*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成を得て進められています。

屈強な作業員8人がかりで,第6塔室内に設置されていた台座が移動されました。その下には,過去に盗掘孔が埋め戻された際の玉石がたくさん詰め込まれていました。

盗掘孔を再度掘り下げる調査が始まりました。土砂に混ざって,拳大の石がたくさん取り出されます。これらの玉石は,砂岩と礫岩とが混ざっており,砂岩の中には連子子の一部や台座の端片などが含まれています。

バイヨン寺院では,建物の基礎となる班築土の中には割栗石として礫岩が混ざっていますが,通常、砂岩は基壇内部の割栗石には利用されていません。つまり,砂岩と礫岩とが混ざっているということは,盗掘孔は建立当初,礫岩混じりの版築土によって埋められていたことが推測されます。周囲に散乱していた砂岩片がこの版築土に混入し,再び盗掘孔の埋め戻しの際に利用されたと想定されるのです。

徐々に掘り下げてゆくと,床面をなす砂岩敷きの下層には砂岩一層とラテライト一層が確認され,床面から約72cmの深さで,穴の側面は版築層となりました。盗掘孔の底はまだ玉石混じりの土砂が溜まっており,さらに掘り下げてゆきます。

穴はやや楕円形にゆがんでいますが,直径60cm程の大きさで,人がようやく一人入れるサイズ。作業は深くなるにつれて厳しいものとなってきます。髪の毛はもはや砂まみれ。

 

090211.jpg床面から約1mの深さで玉石はなくなり,きれいな土が見えてきました。埋め戻しはそろそろ底に近くなり,オリジナルの土が出てきているようです。

と,そのとき細長い陶器が穴の隅に横たわっているのが目に入りました。これはもしや鎮壇具の一部が盗掘をまぬがれて残っているのではないか・・・。との淡い期待がよぎりましたが。

今のところ,まだ正確には分かっていませんが,燭台の一部であるようです。クメール陶器にはあまり類例がありませんので,今後調べてみる必要があります。また,これが当初から埋設されていたものの一部であるのか,埋め戻しの際に混ざっただけのものであるのか,今後検討を要するところです。

この出土からほんの5cm程で,穴のはきれいな版築土となり,オリジナルの土層と判断されるに至りました。

しかしながら,昨年実施した中央塔の主室での発掘調査と比較しても,版築土は緩く,私たちがよく利用している山中式強度計からも高い数値は得られません。

さらに,これが本当に盗掘孔のそこであることを確認するために,穴の底を断ち切ってみましたが,やはり下層には埋め戻しの土は見られず,これがオリジナルである可能性が高いものと判断されました。

その後,この底からハンドオーガーを入れて下層を確認しました。最初2本は20cmほどの深さで石材にあたってしまいましたが,3本目は103cmの深さまで貫入され,穴の底から均質な砂質土であることが確認されました。

今日は、修復事業の団長である中川武(早稲田大学教授)が発掘現場を訪れました。

室内のクリアランスの結果,第6塔の台座の下にも,盗掘孔が埋め戻されている様子が確認され,台座を一度移動し、この盗掘孔の埋め戻し土砂を除去して,地下の構造を確認するために掘り下げる調査が決定しました。

 

ここ第6塔の室内中央には台座が設置されています。しかし,この台座は後世に運び込まれたものであることは明らかで,もともとは長方形の台座であったものを,正方形になるように欠き割って再利用されたものです。バイヨン寺院では,当初の台座が原位置に残されているものはほとんど見られません。当初は各塔の台座の上には神像が安置されていたはずですが,現在では神像となる石製彫刻が安置されている部屋はまれで,それらの神像もオリジナルのものではありません。

また,多くの部屋では,台座も失われており,台座がある場合でも,それらは後世にどこからか運び込まれたものにすぎません。バイヨン寺院では,いつの時代にか盗掘が横行し,神像の据えられた台座は移動され,その下に埋設されていた鎮壇具をねらった縦穴が掘り込まれました。

 

現在進められている南経蔵の修復工事では、盗掘はされていたものの、鎮壇具の一部が出土するという貴重な発見がありました。

バイヨン寺院では、南経蔵以外にもまだ建立当初の鎮壇具が眠っているかもしれません。(一)

 

*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成を得て進められています

中央塔群の西側副塔である第6塔の発掘調査に対象を変更して,再び調査をするか否か、検討を行いました。

第6塔の床面に堆積している土砂のクリーニングを行ったほか,平面記録,石材のレヴェル測量などを進めています。

 

昨日,バイヨン寺院では,内回廊の基壇の縁が一部滑り落ちて観光客がケガをするという事故が生じました。それに対して,緊急処置として,基壇の石材を固定する処置を施しました。この寺院では以前より「危険箇所目録」を作成していますが,昨年,本事業の団員であるロバート・マッカーシーが「危険箇所の再調査」を実施しました。また,今年1月までインターン団員として参加していた朴ドンヒもまた「既往の修復箇所目録」を作成し,バイヨン寺院における新たな補強処置の必要な箇所を総ざらいしました。危険箇所は600カ所以上確認されたほか,既往の補強処置がすでに効果を失い,適切な対応が急務とされる箇所が300カ所以上に上っています。

適切な対応が必要となっています。(一)

 

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残り2材の小さな石材もやはり同様で,解体をしたものの,その下には大型の石材ががっちりと敷き詰められており,この時点で石材の解体は断念せざるを得ない状況に至りました。

どうしても石材を取り外す,というのであれば,解体する石材の上面に数本のピンを埋め込んで,滑車で引き上げるという方法もありますが,今回の調査ではできるだけオリジナルの構造には手を付けないことを原則としているため,ピンの埋め込みなどは避けることとなりました。

 

この時点で,これ以上の解体は不可能と判断され,当初の目的であった,主室壁体の直下の構造を探る発掘調査は断念されました。

現時点では、この部屋での調査に代わって,さらに西側の部屋である第6塔の発掘調査の実施を検討しています。(一)

 

*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成を得て進められています。

敷石の解体が進み,ようやく第一層が全て取り除かれました。この段階で第二層の平面図の作成,各石材のレヴェル測量などが行われます。第一層の石材はいずれも約10c程の薄いもので,後世に床面を嵩上げするように改変したと考えることも可能ではありますが,おそらく建設当初の時点で,床面の高さを調整するために薄い石材を敷き詰めたものと考えた方がよさそうです。

この敷石の層に引き続き,第二層の石材の解体に取りかかりました。この下層の石材は,大きなものが多く,とても取り外しは難しそうに見えますが,中でも3材だけは比較的小型の石材で,何とか取り外せないことはなさそうです。

 

解体に取り組んで数十分,ようやく一番小さな石材を解体することができましたが,その下から見えてきたのは再び,石。。。

取り外した小型の石もまた厚さ10cm程度のもので,実は隣り合う石材が階段状に欠き込まれて,そこにただ載せられているだけだったのです。(一)

 

 

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*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成を得て進められています。

敷石となる石材が一つ,取り外されました。

しかしながら,この作業,予想以上に難航し,いろいろな工具を用いて四苦八苦の末,ようやくのことで解体できたのです。解体作業の前の目視調査からではよく分からなかったのですが,石材間の目地には徹底的にモルタルが充填されていたのです。過去にフランスが保存処置として実施したものだと思われます。昨年,主室で解体発掘調査を実施した際には,このようなモルタルは認められませんでした。

また,予想外に,最上層の石材は厚さ10cm程度と薄いものでした。石材を外すと下には汚い黒い土が溜まっており,小さな虫がワサワサと動き回っているのに背筋が凍ります。よく呪われた秘宝を発掘する考古学アドベンチャー系のハリウッド映画で,体に入り込んでくる黒く光る虫がいますが,あんな場面を想像せずにはいられません。つい作業を交代してもらったりも。

取り外した敷石の下方からは,再び別の石材が見えてきました。当初の推測では,この敷石の下にはラテライト材の基礎が見えてくるはずだったのですが・・・。先の思いやられる事態です。

その後,2材3材と石材の解体が進み,ようやく1m四方ほどの小さな部屋の半分ほどの石材が解体されましたが,モルタルによって接着された石材にダメージを与えないように取り外すのは大変な労力を伴う作業となりました。(一)

 

*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成を得て進められています。

 

「今日のバイヨン」ようやく初めてのバイヨン寺院の紹介となります。

 

バイヨン寺院では,1994年より「日本国政府アンコール遺跡救済チーム」によるさまざまな活動が進められています。今後いろいろな調査研究,そして修復活動についてご紹介できると思いますが,今日からはシリーズ「中央塔の発掘調査」をしばらくお伝えします。以前から,発掘調査の経過をライブな感覚で伝えられたら面白いだろうなと思っていましたが,ここでそんな雰囲気を試してみましょう。

 

バイヨン中央塔は,専門家によっては「いつ壊れてもおかしくない」と言われるほどに構造的に不安定である可能性が指摘されてきました。この塔の安定性・安全性を評価し,危険であるならば,適切な処置を施すための研究が進められています。

 

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地上より42mの高さに達するこの中央塔は,上部の石積みが変形して倒壊にいたる危険性と,地下の基礎構造が変形して崩壊にいたる場合の2つの可能性が考えられます。

 

2008年8月に,後者について,つまり中央塔の構造を確認すべく発掘調査が実施されました。調査の結果,中央塔を支えている壁体の直下には石積みが存在せず,突き固めた砂によってのみ支えられているという可能性が高まりました。しかしながら,これだけ大きな加重を支えている基礎を砂で支えているとはいささか信じがたいところです。まさに「砂上の楼閣」ではないかというのです。

 

そこで,中央塔の基礎構造の追調査をこのたび2月2日より開始する運びとなりました。

今回は中央塔の西室にて敷石を取り外して発掘調査を行います。

調査許可を得て,すでに室内の平面図や断面図の記録は終えています。立ち入り禁止のフェンスと立て看板が設置され,本格的な調査初日となる今日は,安全祈願式から始まりました。

そしてようやく一つ目の石材が・・・取り外されました。(一)

 

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*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成を得て進められています。