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10月末から11月始めにかけて,1週間ほどカンボジアは連休です。

シハモニ国王の誕生日,そしてとっておきの祝日,水祭りがあるのです。

 

この連休の直前,バイヨン南経蔵の修復現場では,工事の安全を祈願するちょっとした儀式を行いました。

修復工事の着工,発掘調査の開始など,何事においても,土地の神様に対する祈願の式が行われますが,調査や工事がうまくいかないときにも,神頼みは欠かせません。

今回の修復工事でもすでに何度か神様にすがって,ここまでなんとかやってきましたが,今回も工事の安全を祈願して,という表向きの目的とともに,現在進めている南経蔵の基壇の仮組みがうまくいくようにとの祈りを込めたものでした。

これまで,南経蔵の北東・南東隅の仮組みを何度か行っていますが,解体をしなかった部分のゆがみが影響して,なかなかうまく組み上げることができずにいます。次の仮組みではなんとか成功しますように!というのがスタッフ一同の願いでした。

今年の前半,壁体の仮組みをしていたときも同じ状況で,その時は8回におよぶ仮組みを繰り返しましたが,もうダメかも・・・という時に,神頼みをし,その次の仮組みでは見事完成!!!

まさに〈神業的〉な出来事でした。

 

そんなことで,困ったときには豚の頭と尻尾をお供えし,神様の御慈悲にすがります。

 

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スタッフの半分は(自分もそうですが),その後にお供え物を食することの方が,重大事でもありますが。

 

(一)

東大寺の大仏、そして大仏殿が幾多の災難に遭いながらも、修復・再建されてきたことはよく知られている。中でも、重源と公慶の勧進によって復興された異なる二つの時代の物語は有名である。重源には複数の協力者がいたのに対して、公慶は再建資金を集めるために全国行脚を一人で行い、7年間の苦難の末に1万両、今にすれば10億円の寄付を集めたという。

この公慶の寄付には、貧しい民衆の多くが協力したというが、そこには寄付者と大仏との間に「結縁」を得て、来世の幸福を得ようとする民衆の切なる願いがあったともいう。大仏殿の再建にあたっては、幕府も支援をしたが、大仏そのものの修復にあたっては、こうした民衆からの支援だけで全てがまかなわれた。

アンコール遺跡群の寺院もまた、人々が神仏に帰依する心によって、建立された部分が少なくなかったものとも考えられる。もちろん祭政一致の国家体制において、王がこうした寺院建立を強力に牽引したことだろうが、それだけではこれだけ大規模な事業を成し遂げることは難しかったに違いない。民衆個々の力が神の御許一つに集約されてこれだけの寺院建設が完成した。

 

現在においても、遺跡修復の規模にもなると、やはり個々人の協力に負うのは難しいといわざるを得ないが、今回の本尊仏再安置プロジェクトにおいては、個人と歴史的寺院とが縁を結ぶための機会にできたらと思う。

世界共通の財産であるアンコール遺跡の仏教寺院でもあり、日本をはじめとして海外に住む人々がこの事業に協力頂くことを切実に願うとともに、どんな小さな協力でも良いからこの寺院と共に生きる地元の人々、カンボジアの人々からの支援もまた得て、この事業が進められたら本当に意義ある事業になるだろう。

 

資金面での支援でも、現場作業の上での協力でも、なにかそうした場を設けられないだろうか。支援をされることがあまりにも一般化しているこの国でも、寺院を故郷の村に建設したりするような、特に信仰にまつわる部分では様々な奉仕の精神が生きている。そうした精神をここに持ち込むことによって、本当の意味で喜ばれるべき本尊仏再安置の落慶を迎えることができるように思う。

本尊仏修理と移動についてのシミュレーションをしてみたが,もう一つ考えないとならない問題がある。「中央塔主室の地下の構造強化」について。

 

中央塔における発掘調査やボーリング調査については,以前にもこのブログで紹介したことがあったが,重要な結論の一つとしては,過去の発掘調査後の埋め戻しがきわめて緩い,ということにある。

もしも,本尊仏を室内に安置してしまえば,将来的に中央塔の基礎強化のために埋め戻しをし直す際には,これを再び移動しなくてはならなくなるし,また,そもそも15トンほどのこの石仏を室内に安置して構造的に十分に支持されるのか?という疑問もある。

この点については,これまで地盤や構造の専門家による意見が割れており,15トン程度なら十分に現状の構造でも持つだろう,と推測される専門家と,いやいや十分な基盤の強化が必要だろう,とされる専門家の意見もある。

 

いずれにしても,中央塔の上部構造の長期的な安定化のためには,基礎の強化は不可欠であるという点では意見の一致を見ているので,本尊仏の設置前にその直下の構造許可が求められるところであろう。

 

いろいろな強化方法が考えられる。

 

1.再度,縦穴を掘り下げて,下から順に突き固めながら埋め戻す。この場合には,縦穴が崩落しないように十分な支保を施しながら掘り下げてゆく必要がある。支保の方法について高い専門性をもって検討を要することになろう。場合によっては支保工そのものを地下に残すことにもなるだろう。

 

2.ボーリング孔を利用して,強化剤を下方から注入充填して強化する。この場合には,その方法や素材について十分な検討を要するところではあるが,再びこれを掘り下げるという調査は難しく,リバーシブルな手法ではない。

 

3.基礎杭を打ち込んで,本尊仏の支持にする。この方法では,中央塔の基礎そのものの強化には関与せず,安置する石仏の安定性に限った処置となる。杭の深さについても、地山に到達させるべきか、あるいはその上方で留めても良いか、検討を要するところだろう。

 

4.最初の方法に類似した方法で,再び縦穴を掘り下げて,突き固める方法だが,過去の発掘調査の縦穴の最深部からやりなおすのではなく,必要な深さだけにとどめてこれを行う。例えば,床下5mまでに限って,十分な強度を再現して,本尊仏を支える耐荷板を設けると共に、塔壁体が内側に変形するのを防ごうとする方法。

 

いずれの方法においても,十分な事前研究が不可欠であるが,オリジナルの本尊仏の再安置にしても,レプリカの設置にしてもなんらかの基礎の改善が求められるところである。

オリジナルの本尊仏の再安置は何よりも望ましいが、やはり現実的には厳しい問題が多発することが予想される。次善の策として、オリジナルの本尊仏は、現テラスに保持したまま解体を伴わない修復処置だけを行い、バイヨン寺院の中央には、このレプリカを設置するという案も検討されている。

 

8月にオープンしたバイヨン・インフォメーション・センターでは、石彫の展示物として、この本尊仏の約2/5スケールでのミニチュアを制作した。この時は、特に厳密なレプリカの作成を目指したわけではなく、同じような雰囲気のもの、ということで、各部のプロポーションはやや異なっている。

 

ただ、再安置に制作するレプリカはそういうわけにはいかない。厳密な1分の1レプリカの作成を目指したい。

すでに、仏陀像はレーザースキャニングを行い三次元形状データが得られている。日本であれば、このデータから簡単に同じ形状のモデルを加工することができるが、ここカンボジアではそんなことはできないし、もちろん砂岩での削り出しは自動的にはできないので、手作業でこの加工にあたる必要がある。

レプリカの作成にあたってはいろいろな方法が考えられるが、三次元データから水平、鉛直方向に規則的に切断したときの断面形状を取り出し、同寸大の型枠を何枚も作って形状を調整する方法が良さそうである。中央の断面図となる型枠は高さが3.7mにもなるので、ある程度しっかりとした素材で準備する必要がある。

また、展示品として作成した仏陀像の時に特に苦労したのが、「顔」の表情である。前回は顔だけを3回も削り直して調整をしたが、結局あまり似た顔にはならなかった。結果、顔がやや小さくなって、よく見るとバランスが悪い。

バイヨンの本尊仏の顔は、他のクメールの仏像とは異なった独特な表情をしている。バイヨン様式の彫像は、比較的形式化を逃れ、神格化された人物の個性を直接的に表現しようとしているものが多い。ただ、この本尊仏の表情は、ただ単に、こうした自由な表現性の賜であったというわけではないようで、「個性」がみとめられない、神秘的なやや硬直した顔でもある。つまり、バイヨン期に多い、自由な表現力と、それ以前の硬直化した様式美との中間に位置しているように見える。

その微妙な感じは、やはり彫刻家の創作力に頼るものではなく、正確にオリジナルをコピーすることで得るしかないように思われる。

 

さて、レプリカを作成する一番の目的は、オリジナルの本尊仏において困難であった移動を容易にするためである。ということで、レプリカはいくつかの小材を組み合わせることで、移動や組み立ての労力が軽減される。

できるだけ目立たず、かつ設置後に安定し、十分に各部材が軽量化できるサイズと組み合わせの方法を考える必要がある。

バイヨン寺院の本尊仏、通常のクメールの石仏と比べてかなり大きなものである。

全高4.7m、下部1mの台座は切石を積み上げて構成されているが、その上のとぐろを巻くナーガの全体と座仏像の全ては砂岩一材よりなっている。

彫像は全体で約15トンという重量が概算されている。上部の一材だけでも10トンは下らない。

 

トルーヴェがこの石仏を発見した物語(その2)で紹介したように、この仏陀像は、複数の部材に破壊された状態で発見された。おそらく、当初は一材であった仏陀像とナーガは、大きく3材に破断しており、その他にも各所が小さな石片として砕けていたようである。

これがフランス極東学院によって接合、修理され、最終的に王宮前広場近くのテラスに移送、そして仏像を保護するための覆屋が敷設された。それから70年以上の月日が流れて今に至る。

 

この本尊仏をバイヨン寺院に復位したいと願っているが、しかし実際のところ、この石仏はこのように大きく、重い。これを複雑に入り組み、急な勾配の階段に阻まれたバイヨン寺院の中央まで運び上げることができるのか?ここでは、その難題に仮想的に取り組んでみたい。

 

1.本尊仏の原位置からの移動

覆屋の天井とこの石仏のナーガの頂部とは、ほとんど隙間が無い状況である。また、本尊仏が仮安置されたテラス周囲にはラテライトの周壁が巡らされている。

こうした条件にあるため、重機によって本尊仏を吊り上げることはできない。また、周囲に足場を組んで、滑車などによって吊り上げるスペースもない。

一つの可能性は、周囲に組んだフレームに10トンクラスのジャッキアップ数台を周辺に設置し、本尊仏の下半身をバランス良く持ち上げる。ここで、もし台座と一材よりなる上部のナーガ+仏陀の縁が切れて持ち上げることができたら、そのまま固定しておき、下方の切石積みよりなる台座を個別に解体する。

その後、仏陀像をテラス上にどうにかして下ろす。この時に、どうやって転倒しないようにバランス良く仏陀像を下ろすのか、難しいところ。

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その後、これをテラスから下ろす際にも、人力での移動は厳しいことが予想される。確実な方法は、周壁の一部を解体し、重機を内部に持ち込むことである。ただし、カーゴトラックやミニクレーンではスペックが足りないため、ラフタークレーンの出動が求められる。

 

ようやく、こうして吊り上げて、近くに待機するトラック上に積み込み、彫像の修復現場へと移動が完了する。もちろん、一度解体した周壁を再構築するのを忘れてはならない。

 

 

 

2.彫像の修復

発見された当時の、バラバラになった各部材毎の写真や図面が残されていないため、彫刻各部がどのようなパーツに破断していたのか定かではない。彫像には接合の石目地が走っているが、どことどこの線が繋がって、どこまでが一材であるのかどうか・・・など、外観からは確かなことは判らない。

修復にあたって、ベストなのは、過去に接合された各パーツをもう一度解体した後、再び修理して組み直すという方法である。もし、これが可能なら、バラバラにした各パーツ毎にバイヨン寺院内に移動することもできる。

さて、当時の接合処理にあたっては、鉄筋などが内部に配されている可能性が高い。こうした配筋を確認するために、電磁波レーダーで調査したところ、光背部に少なくとも4本の鉄筋が使用されていることが確認された。あるいは、5本であるかも知れないが、もう一本の有無はレーダーの画像から正確に読みとることはできなかった。この調査に用いた計器は、曲面での使用には限界があるため、仏陀像前面の複雑な形状にある部分は十分な確認は困難である。

しかし、重要な点は鉄筋が使用されていたことが確認されたことにあり、このために、修復の難易度はかなり高まったと考えて良さそうである。

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この彫像の修復のポイントは次の三点。

a) 接合箇所の目地充填モルタルを交換し、石材に影響をあたえず、また見た目にも違和感のないものに修正する。

b) 彫刻表面の欠損箇所を補填しているモルタルを交換する。石材よりもかなり暗い色のモルタルが使用されているため、これを交換することで見栄えはずいぶん改善されることが期待できる。

c) 内部接合の鉄筋の交換。ステンレススチールやカーボンファイバー製のピンに交換することで、より長持ち、石材にも優しい材料となる。

ただし、各パーツに解体することができなかった場合にはaとbのみの処置となり、またaについてもどこまで充填材の交換ができるかは確かではない。

もしも,解体ができ,かつ組み立て処理を中央塔室内でできるとすれば,この後の移動作業は各パーツ毎に行う可能性も得られる。

 

3.バイヨン寺院中央祠堂への移動

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これが一番の難題である。大きなハードルは、

①外回廊をどうやって越えるか?

②内回廊をどうやって越えるか?

③中央テラスにどうやって引き上げるか?

④中央テラス上をどうやって移動するか?

 

⑤狭い中央塔群の室内をどうやって移動するか?

⑥狭い中央の部屋でどうやって据え付けるか?

つまり、全ての行程が大きなハードルなわけである。考えられる可能性は以下の通り。

 

まず、なんらかの素材で石仏を養生する。移動中にぶつけても、落としても大丈夫なような保護をする必要がある。石仏そのものが重いので、さらに重くなってしまうような素材は避けたい。発泡ウレタンのようなもので周囲を包んでしまうのが良いかも知れない。

 

①外回廊西側の外ギリギリに設置したラフタークレーンで、外回廊の内部に吊り上げて移動する。と、いう方法がとれれば楽だが、実際には、外回廊の基壇に設置したクレーンから壁体の内側までは約15mの距離があり、この場合、当事業で所有している30tクレーンであっても3.8トンまでしか吊り上げることができない。10トンであれば、だいたい8m程の作業半径しかカバーできない。このため、外回廊の基壇の上に載せるのが精一杯であり、そこからは西門を通過して移動しなくてはならない。この時、おそらく外回廊西門から内回廊の西門外側には足場を組み、内部に向かってやや傾斜をつけた平らな面を作った上で、コロを使って石材を移動することになるだろうか。

 

091019_03.JPGのサムネール画像 091019_04.JPGのサムネール画像のサムネール画像②内回廊を越えるとの③中央テラスに上げるのは、一つの作業と見なした方が良さそうだが、これは相当な難題である。内回廊西門から中央テラスまで一直線の急勾配の階段を上げることはまずできない。特に内回廊西門を通過して、テラスの階段に差し掛かったあたりの、狭いスペースではとても大がかりな作業は難しい。

 

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一つのアイデアは、内回廊の外側からこの回廊の屋根を越えてテラス上面を繋ぐ、大規模な足場を架けてしまう方法があろう。足場の上には5tクラスの滑車を数台設置してこれで徐々に吊り上げる。恐ろしいのは、内回廊の屋根の上に架けられた足場を移動する作業だろう。果たしてこのアクロバティックな移動が実現するのかどうか。

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④中央テラス上の移動。やはり水平面での移動はコロを使った移動になるだろうか。テラス上には土を詰めた土嚢袋を敷き詰め、その上に鉄骨でレールを敷き、その上をコロを転がすように移動していく。

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⑤中央塔群室内には西側の副塔から入る。やはり室内は土嚢袋を何重にも敷き詰め、水平に配置したレール上を転がしながら移動する。仏陀像の横幅は最も小さいところで1.3m。室内の扉の幅もほぼ同寸。少しでもぶれたら、壁体にぶつかってしまうし、塔にとっても石仏にとっても危険な作業。

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⑥おそらく中央の部屋に据え付けるのが最も困難な課題。これまでの過激な場面は見られないだろうが、地味に難しく、慎重な作業が求められる。狭い室内は、本尊仏が移送されてきた段階ではすでに床面の整備を終え、十分な基礎が準備されている必要がある。これについては、また別のところで説明する必要があるが、とにかく、構造的に現状の床面上に直接仏陀像を設置するともたない危険性がある。本尊仏の上部一材は、切石積みの台座の上に据え付けられるが、おそらく台座を先に据え付けておいて、その状態で上部の一材を持ち込むと、狭いスペースで詰まってしまうことが予想される(厳密にシミュレーションする必要があるが・・・)。そのため、まずは、仏陀+ナーガの一材を室内に運び込み、それから室内に設置した足場か、なんらかのフレームによって室内上空に吊り上げておく必要がある。その後、室内には台座の石材を運び込み、新たに強化した床面上にそれらの台座を配置する。そうして安定した台座ができたら、その上に吊り上げていた仏陀像を下ろして据え付けることになる。

 

これでようやく安置完了。。。

 

このままでは、背の高い仏陀像の上半身は暗闇に消えてしまうので、軟らかい照明をあてる方が良いだろう。太陽電池で照明の電力は充電しようか、あるいは、ロウソクの光でも良いかも知れないが、メンテナンスが大変なことが予想される。また、仏陀像には木製の天蓋を架けたい。コウモリの糞尿から身を守るため、そして何より御本尊の格に見合った調度を施したい。

 

さて、これら一連の作業。ベターな解法が見つかる可能性もあるだろうが、いずれにしても難事業であることは間違いない。相当な準備とそれなりのリスクを負って、再安置することができるかどうか。

 

 

中央塔の地下から発見された本尊仏は,果たしてどんな運命を辿り,今に至ったのであろうか?

 

まず,もう少し正確に本尊仏が発見された時のことを当時の作業記録をもとに確認しよう。

トルーヴェは1933年8月に発掘調査を開始した。そして,床面からの深さ1~5mにおいて,彫像の大半をなす石片を発見している。また,発見された際には,石片の一部に金箔が貼り付いていたようで,彼はこの彫像が当初は金箔で覆われていたのではないかと推測している。

 

さらに掘り下げ作業は継続され,最終的に深さ14mで発掘調査を終える。この深さにいたって地下水が湧き出し,掘り下げを断念せざるを得なかったのである。さらに,この発掘調査の底からさらに1mの深さでボーリング調査を行ったが,軟らかい土層しか確認されなかったことを彼は記している。

 

この掘り下げ作業の途中,深さ12.5mでは,本尊仏の基台の部材を2点と,本尊仏の手の一部となる石片2点を発見している。また,同12.5mの深さで,北側を除く3方向に水平のトンネルが掘られ,およそ主室の壁体と同形であることが予想される位置に,なんらかの石積みを確認している。

 

実際にこの作業を指揮していた彼の報告の中で,特に興味深いのは,以下の記述である。

 

「プラサート・アク・ヨムとバイヨンの東西断面について考察すると,プラサート・アク・ヨムの地下室は,ピラミッドの基壇のレベルよりかなり下方に位置している。もし,バイヨンに同様の法則を適応するのなら,この寺院の基壇の下にも地下室が存在しえる。ところで,この原始的な堀り方の竪穴は,理由なく作られたわけではない。従って,地面の下には現在は盗まれてしまっているが,貴重な宝庫が存在したはずである。宝庫は,砂岩ブロックの間,または私が想定するように地下の部屋の中にあるに違いない。従って,はっきりと確認するためには,私が掘り始めた縦穴をさらに掘り下げる必要がある。しかし,現在の地下水レベルがその最低位まで下がるには乾季を待たなければならない。地下水が最低位まで下がれば,作業は容易で危険は免れ得るであろう。」

 

さて,地下室の有無についての問いかけについては,わきにおいておき,まずはこの発掘調査の結果から生じる問題について考えたい。

 

一つ目は,主室の地下に当初は煙突状の円柱あるいは四角柱の石積みの構造があったのかどうか?

また,建立当時,この構造の中は空洞であったのか,あるいは土か何かで埋められていたのかどうか?

という問いである。

 

トルーヴェは地下12.5mの横穴の先で,なんらかの石積みの壁にぶち当たっている。それは,ちょうど壁体に囲まれた室内と同じ大きさの筒状の構造が,そのまま地下に連続しているような位置にあった。

つまり,そこから推測されるのは,巨大な荷重を受けている壁体は,床面の下でもそのまま石積みが連続して地下の支持構造体となっている可能性である。

 

しかしながら,この可能性については,2008年から今年にかけて実施した中央室内の発掘調査によって否定された。壁体の下にはラテライトが一層か,場所によっては二層確認されたものの,その下は版築土であり,地下に続く石積みは認められなかったのである。(ただし,説明は混乱するが,現在修復工事を進めている南経蔵で発見された基壇内部のラテライト造構造体は,床面直下の50cm~1mで一度版築土が挟み込まれて,その下から再びラテライト積みが連続しており,同様の構造が中央塔にも適用されているとすれば,我々が実施した主室壁体下のラテライト層直下で実施した横穴探査では,ちょうどこのラテライトによってサンドイッチのように挟み込まれた版築土層を突いてしまった可能性が残される。)

 

もう一つ,地下が空洞になっていた可能性については,かなり低いものと考えられる。というのも,筒状の石積みがもし壁体下に続いていたとしても,この内側全体が空洞であったとしたら,室内に当初安置されていた大きな仏陀像を,床面のスラブだけで支えることはできなかったであろうし,また,地下の筒状の石積みが,壁体よりも直径の小さなものであり,二重の構造となっていたとしても,その内側の筒を形作る石材は相当な数を要するもので,過去の発掘の際に少なからず発見されていても良いと思われるからである。

 

つまり,当初から室内直下に縦穴のような空洞は存在せず,そこは土によって密実に版築されていたものと考えて良さそうである。

 

さて次の問は,ちょっと唐突だが,この盗掘団は何者だったのだろうか?という疑問である。

 

主室内直下に縦穴がなかったと考えられることから,本尊仏の一部が深さ12.5mから発見されたということは,過去にこの深さまでは盗掘されて掘り下げられていたことを示している。順当に考えれば,本尊仏が破壊されたときに,併せて盗掘されたものと推測される。

 

室内に安置されていた仏陀像を破壊し,側室かどこかにそれらの石片を移動する。さらに床面を取り外し,締め固められた版築土を掘り下げてゆく。どこまで掘り下げたのか,そして何か地下室のようなものがあったのかどうかは定かではないが,トルーヴェが確認した15mの深さまでは少なくとも彼らは掘り下げに成功したことであろう。そして,我々が今年2月に行ったボーリング調査の結果に基づけば,床面から深さ19mまでは同質の砂層が連続していたことから,その深さまで盗掘団は掘り下げを行ったことも推測される。

 

この時の盗掘穴の大きさは定かではないが,少なくとも地下15m以上の深さまで穴を掘り下げ,さらに掘り出した土を引き上げるためには,直径2mほどの穴は少なくとも必要であったことだろう。つまり,高さ15m,直径2mの円柱形の空洞ができるわけで,その際に掘り上げられた土量は相当なものであったことが推測される。当然,中央塔群の室内だけでは土の置き場には不十分で,中央基壇上に盛り上げられていた様子が想像される。

 

盗掘団が最下部まで掘り下げて体よく宝物を発見したか,しなかったか・・・,は定かではないものの,彼らの作業はここで終えた・・・と考えて良いだろう・・・か?

 

さて,ここまで「盗掘団」と呼んできた彼ら,もう一度質問に戻るが,果たして何者だろうか?

よく知られているように,バイヨン寺院は,当初,仏教寺院として建立された後に,ヒンドゥー教寺院に改宗された。その際,寺院内の仏教モチーフはことごとく破壊され,代わりにその多くが,リンガのモチーフに削り「直された」のである。

そう,この集団,なにも一方的な破壊集団であったわけではなくて,まがいなりにもヒンドゥー信者であったわけである。

 

盗掘団もまた,おそらくはこのヒンドゥー信者であったことだろう。つまり,彼らは,憎き仏教寺院の鎮壇具を「盗掘」したというよりも,「取り替えた」のかもしれない。

 

再び,現在修復中の南経蔵の様子をお伝えしよう。ここでは,基壇の解体中,室内中央の小さな縦穴から鎮壇具が発見された。鎮壇具は幾層かの土層に分かれて複数見つかったが,この土層を精査したところ,建設当初の鎮壇具と,後世に再びこの穴を掘り下げて安置し直した二つの異なる時代のものが確認されたのである。

それぞれの時代については定かではないが,一方はヒンドゥー教寺院としてバイヨンが改修されたときの鎮壇具であると推測される。

 

つまり,そうなってくると,中央塔の地下の鎮壇具もヒンドゥー教寺院に改宗されたときに,「再」安置したと考えても良いわけである。その場合,当初の鎮壇具は遺失しているかもしれないが,少なくとも改宗時に治められた鎮壇具は,残存していることになる。

 

「盗掘団」という名を修正して,「ヒンドゥー教信者」は鎮壇具を安置した後,再び掘り上げた土を縦穴に戻してゆく。その際,いくつかの石材は深さ12.5mまで土を戻したところで穴に落ち,そして大型の石材は埋め戻し修了間近の深さ数mのところで穴に投げ込まれた。そして,再び床面を造り,そこにはおそらくハリハラ神が安置されたものと考えられている。

 

この一連のストーリーであれば,発見された仏陀像の石片が二つの深さから発見されたことも説明ができる。

もし,「ヒンドゥー教信者」ではなくて,単なる「盗掘団」だったとしたら・・・。

それなら,おそらくバイヨンでの成功の味をしめた後,次なる標的としてアンコール・ワットを狙ったはずではなかっただろうか?

 

しかし,アンコール・ワットは1934~35年の発掘調査によって,盗掘の被害は受けていないことが確認された。実際には,この発掘調査そのものが盗掘のようなもので,調査結果を記す図面はあるものの,確かな記録がなく,発見された遺物も残されていないのだが。

 

いずれにせよ,推測に推測を重ねた中でのこの話,どこまで的確に真実を追えているのかは全く確証がないものの,やはり中央塔の地下には,何かが残されていると考えずにはいられない。

(一)

前回紹介したバイヨン寺院,本尊仏発見の物語が,細部においてまったくのフィクションであることは断り書きをするまでもなく,ご了解頂いていることと思うが,もう少し,この時代のバイヨン研究の背景を紹介しておこう。

 

バイヨン寺院はアンコール遺跡の各寺院の建立編年を考察する上では厄介な存在であった。20世紀初頭の段階では,この寺院は9世紀に建立された寺院であると考えられていた。今となっては,プノン・バケンが9世紀の第一次ヤショダラプラの中心寺院であるものと知られているが,当時はプノン・バケンの山の上など調査されたことさえなかったのである。

 

バイヨン9世紀説は,一人の美術史家によって覆される。アンコールを一度も訪れることなく,バイヨン寺院の編年に修正を迫ったことでよく知られているステルンによるものある。11世紀,アンコール・ワットの建立直前にバイヨン寺院が建立された,というのが彼の新説であった。未整備な土地に熱帯雨林という過酷な環境に身をおかずして1927年に提出された彼のこの論説は,アンコール遺跡を現地で調査している研究者にとっては,辛酸を舐める思いで受けいれられた。

 

同年1927年には,建築考古学者パルマンティエによってバイヨン寺院が複数回の増改築を経て今見る姿に至ったことが示された。また,それまで仏教モチーフはほとんど確認されていなかったバイヨン寺院において,増築によって隠されていた破風飾りに観音菩薩像が彫刻されていることが明かとなり,寺院の主尊についても物議が醸し出される。

 

ステルンの年代改訂から2年後,今度は1929年,クメール研究の大家,セデスによってバイヨン寺院は13世紀に建立されたという説が提出される。アンコール・トムの周壁の隅に位置するプラサート・チュルンの碑文の記述に基づく説であった。結局,この説が今に至る定説となるわけである。

 

また,バイヨン寺院に代わる第一次ヤショダラプラの中心寺院には,ようやく1932年にゴルベウによる航空調査で見事発見されたプノン・バケンが落ち着くことになった。

 

バイヨン寺院ではプノン・バケンが発見されたこの年に,中央塔の一部が崩れ落ちるという惨事が発生している。それを受けて,その翌年の1933年には,中央塔の上部の補強工事が行われ,そしてついに,前回登場のトルーヴェによる本尊仏発見の発掘調査へと至るのである。

 

この時期に刊行された書物や論文を眺めると,アンコール遺跡の研究はめまぐるしく更新され,本流を突き進む研究が並んでいる。今見ると,羨ましいほどに大きな発見の可能性に満ちた世界である。(一)