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時は今から70年ほど前,1933年のこと,バイヨン寺院の本殿となる中央塔の室内では,縦穴掘りが進められていた。遙か上方の塔頂部の崩落箇所から一筋の白い光が差し込む他は薄暗く,そして風もほとんど通らない陰湿な部屋の中でのこと。

 

まだ30代前半の若き修復保存官,ジョルジュ・トルーヴェが指揮をとる考古学調査隊は,バイヨンという建築の建立の目的を解明するための鍵が,寺院内で最重要の主室の地下に潜んでいることを確信し,大粒の汗をたらしながら黙々と作業に専念していた。彼らの熱く激しい野心と好奇心が,暗い室内に光明を灯しているようであった。

 

その時,彼らは確かに核心に迫っていた。

縦穴を掘り始めて数日,まだ背丈からやや掘り下がった程度の深さのこと,大きな石片の発見に掘る手が止まった。

連日のように遺跡群内から倉庫へと重要な彫像を移動していた彼らにとっても,この石彫は見慣れないほどに巨大で,その全体像を即座に把握することはできなかった。滑車で彫像を室内の床面まで引き上げ,主室脇の狭い側房内に運び込み,ようやくのこと枕木の上にこの彫像を据えた。未だ彫刻の全体は定かではなく,それだけでも十分に大きな彫刻であるにも関わらず,どうやらそれは全体の一部に過ぎないようで,破断面の他には,蛇の鱗を模した線刻が一面に施され緩いカーブを描いている面が確認された。石材の下面は土が堅く張り付きこの状況では確認することができない。欄干の端に屹立するナーガであろうというのがその場に居合わせたものの第一観であったが,それは間もなく覆される。

 

引き上げた彫像のさらに下方には,再び石片が頭をのぞかせているのが薄明かりのもとに照らされた。先の石材を引き上げるのにほぼ半日,さらにこの石材の引き上げ作業にいくら時間を要することか。先の石片に勝るとも劣らない大きさであることが周囲の土を除けていく中で明かとなりつつある。ようやく,石材の底面が見え,5tは吊り上げることができるスリングを石材に巻き付ける。滑車で石材を引き上げ,今度は先ほどとは別の側房に下ろした。この石材にも先のものと同様の鱗の線刻があるが,どうやら欄干のナーガでなないようである。石材は螺旋状に切り込みが入っている。そうである,鱗の石面がとぐろを巻いているのだ。

 

トルーヴェははたと気が付いた。サイズだけ見れば常軌を逸しているが,これは多頭の蛇に護られた仏,つまりムチリンダ竜王に庇護された仏陀の像ではないだろうか。そう思うと居ても立ってもいられなくなり,すぐさま側房の石片を中央テラスの明かりの下へ運び出す指示を出す。狭く段差のある室内の移動は,ままならないもので,日頃から倒壊著しい寺院の中で大きな石材を移動している彼らにとっても大仕事であった。一方のチームは遺跡の周囲から丸太を切り出し,中央塔の基壇からテラスの段差を下ろすための仮設的な斜路が造られる。ようやく石材が外に運び出されたときには夕刻の赤い日差しが西の空からほぼ水平に射している頃であった。

 

運び出したのは最初に縦穴から引き上げた石材。移動の間も鱗の線刻面を上にしてきたが,ようやくテラス上でこれを返すことができる。この時にはすでに大勢の胸の内にはナーガに護られた仏陀の像である想像が膨らんでいたが,しかし,一材でこれだけの大きさの仏陀像は目にしたことがない。彫像の天地を反転し,水を流して,そこに張り付いていた土を丁寧に取り除いてゆく。

 

皆の視線がある一点にそそがれる。その土の盛り上がりの下には,仏陀の顔があるべき所。夕暮れの光のもと,虫の声があたりをつんざき,それが邪念を打ち消して無音の世界に没入させる。一面がオレンジ色に輝く中で,水に濡れた石の面が露わになった。

 

そこには穏やかに瞑想する,優しく,しかし確固たる意志が込められた,仏陀の顔があった。

 

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アンコールに寺院多しと言えども,その御本尊となる神像が特定されている寺院はほとんどありません。ある意味,寺院は神様を祀るための入れ物〈ハコ〉にすぎず,御本尊こそが寺院の核心であるわけですが,その核心はことごとく散逸してしまっています。

 

そんな中で,バイヨンは建立当初の御本尊が特定されているごく限られた寺院の一つです。バイヨン寺院の御本尊は,日本でいうところの東大寺の大仏に相当するような重要な彫像です。護国寺バイヨンの中央には,国家そのものの精神的・象徴的中核となるべく仏陀像が,当時の大王ジャヤヴァルマン七世と重ね合わされるように安置されていました。

 

この重要な仏陀像は,現在,アンコール・トムの王宮前広場の片隅のある小さなテラス上に安置されています。ほとんど観光客も訪れることのないプラサート・スープラの裏に,ひっそりと静かに佇んで余生を送っているのです。

090930-1.JPG私たちは,クメール帝国の核心に鎮座する国家の象徴たるこの仏陀像,あるいは等身大のレプリカを,バイヨン寺院の本殿に再安置したいと考えています。

 

 

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註:このような文で注意書きが入るのもおかしいのですが,アンコールでは,一部の限られた人だけがおそらく目にすることができたであろう神像と同等,あるいはそれ以上に建築そのものが重要であった可能性も十分に考えられるでしょう。寺院は治世者にとって人心を握るための重要な装置であったわけで,だれでもが目にすることができる建築にこそ,意味と意匠とが傾注された・・・と想像するこtもできるでしょう。

雨季ですので,大したことはできないのですが,ベンメアレア寺院の環壕とその東側のバライの調査を少しだけ行いました。

 

観光客は一般的にベンメアレアの南側の参道からアクセスします。ベンメアレアの環壕の南辺は水をたたえ,ハスが一面に咲き誇り,実に美しい入り口となっています。

この反対側,北側の環壕の痕跡は不明瞭です。ベンメアレア川が西から東へとメアンダリングしながら流れており,これが環壕の代わりをなしているようでもありますが,詳細は今のところ不明です。また,観光客で賑わう南門と打ってかわった景色を北門では見ることができます。こちらは門と最外郭の参道とがこのベンメアレア川によって分断されていますが,雨が降ろうものなら,砂岩の露頭上を激しく水が流れます。地元の人たちは良くここで水遊びをしているようで,近づくと甲高い子供達の声が聞こえてきます。

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南辺の環壕は,その西端付近がもっとも低いようで,そこから南方へと環壕の高さを水位が超えると流水が生じます。その付近に,ラテライト列や砂岩材が散乱しており,もしかしたら南側へと水を抜くための水路があったことも推測されるところです。

一方,前述のように,北辺は東へと水が流れています。また,東辺はその北側においては環壕の存在は不確かですが,北へと水が流れていることは確かです。

 

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このように,ベンメアレアの敷地はある一方向に傾斜しているわけではなく,周囲から微妙に高い土地に位置しているようです。

 

環壕を横断している参道はラテライト造ですが,東門に確認される限りでは,参道下は迫り出し式で積み上げられており,少なくとも,元々は水が参道の下を流れるようになっていたようです(現状では,西門では水が流れている形跡はありません)。そうしたことから,おそらく自然流を利用した北辺の他の三辺でも環壕は水の流れがあったものと考えられます。しかし,不思議なのは,この環壕の水がどこからやってくるのか,ということです。

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この問題はバライにも同様です。

バライはその西辺に大型のテラスを備えており,また南側と東側には付属の寺院施設を配しています。中央はまだ確認できていませんが,既往の文献によれば,プラサート・プティと呼ばれる遺構があるとされています。四方を囲繞する土手は,北・西・南辺を確認した限りではかなり背の高い土堤です。バライの北側にはベンメアレアの北辺となっている川が流れていますが,これがバライに引き込まれているか否かは今のところ確認されていません。ただ,目視による限りにおいては,川の水位は土堤よりもかなり低く,バライ内の池底のレヴェルよりも低いようなので,これを引き込むのは難しいように思われます。

 

これだけ背の高い土手を周囲に巡らせているわけですから,その貯水量は相当な量が期待されるところで,あわせて入水のキャッチメントエリアもかなり広かったことが推測されるところではありますが,今のところ,その取水のための水門や水源は定かではありません。北にはクーレン山が横たわっており,その南裾にベンメアレアが位置していることを考えると,北側の高みからなんらかの水流があったことが推測されるところではありますが,実際にはベンメアレア東側の河川は北東に流れて,やや離れた王道上かかる大橋スピアン・タ・オンにて南方へと流路を変えていますので,この推測もまたあまり正しそうにありません。

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こうしたベンメアレアでのバライの入水と同様の問題が,コー・ケーの貯水池ラハールにもあります。ラハールはこれまで南辺を除く三辺に土手が築かれているものと考えられてきましたが,南側にも土手があるらしいことが確認されつつあります。全体として南から北へと勾配を有するラハール周辺においては,入水は南側の緩い丘陵地側からやってくるものと考えられますが,土手が南側にあるとなれば,どこかに土手を切った水門があったことが予想されます。ベンメアレアでも同様ですが,こうした調査をする最大の障害は地雷の存在にあり,今のところどちらの遺跡でも詳細な踏査ができずにいますが,興味深い課題です。(一)

ベンメアレアはシェムリアップ市内から1時間ほどで訪れることができ,最近は特に日本人に人気のある遺跡です。鬱蒼と茂ったジャングルの中に静かに佇む,朽ち果てたこの石造の大寺院では,19世紀後半,アンコール文明が密林の中から発見された当時の感動の場面に立ち会うようです。寺院を形作っていた大きな切石の上を全身でバランスを取りながら慎重に進むとき,過去の文明が築いた建築の偉大さと,それをも呑み込む自然の力強さや時間の悠久の流れを感じることでしょう。数年前に「Two Brothers」というフランス映画の舞台になった後,境内にはあたかも映画のカメラワークそのものを体感できるような立体的な動線を楽しめる木道が設置され,他の遺跡にはない魅力あふれたサイトとなりました。

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と,なんだかこそばゆい観光ガイドの一文のようになってしまいましたが,一般的にはそんなエキゾチックで冒険心をくすぶる遺跡,それがベンメアレアだと言えるでしょう。

この遺跡で,2009年8月末より〈早稲田大学-名城大学〉による研究が開始されました。

 

ベンメアレア遺跡は,しかしながら,研究者にとってはなかなか手強い相手です。『黙して語らず』というのがモットーであるかのごときこの遺跡は,一切の碑文が出土しておらず,建造年代も,建造王も分かっていません。建築や装飾はほぼ完璧に仕上げられており,付け入る隙がなく,調査する上での面白みに欠ける遺跡だと言わざるを得ません。ちょっと隙があった方が可愛らしくて,いろいろとつっつきたくなるものでしょう(?)。

 

この遺跡はよくアンコール・ワットとの比較において引き合いに出されます。たしかに,寺院の構成や建築の完成度,そして装飾様式はとても似ています。アンコール・ワットと前後して建立されたことは間違いありません。様々な推測にもとづき,アンコール・ワットよりも前に,とか後に,造られたと紹介されており,たしかに,建物の造作や彫刻装飾などから様々な類似点や相違点を示すことは可能ですが,実際に確かな時代の前後差を示すことは,建物そのものからは難しいと言わざるを得ません。

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さて,平面図をみると一見して確かにアンコール・ワットと似ています。実際にはアンコール・ワットはピラミッド型の立面をしているのに対して,ベンメアレアは起伏がありませんので,立面的には全く異なったものですが,このように類似していることから,クメールの最高傑作となるアンコール・ワット建造の試作品としてベンメアレアが造られたという人がいるほどです。

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アンコール・ワットでは極めて精確な図面集が刊行されていますが,ベンメアレアで作成されている図面はさほど正しくありません。細部に建物を眺めていくと,図面とは異なる部分が少なくありません。また,建物の配置なども厳密には異なっています。

 

そうしたことから,調査隊はまずは遺跡の精確な平面図を作成することに取り組んでいます。

GPS測量によって基準点を設置し,そこからトータル・ステーションで建物各所の測量を行います。また,建物細部はメジャーや曲尺などを用いて採寸していきます。遺跡内は,樹林に覆われ,また崩落石材によって移動が妨げられることもあり,測量は難航していますが,徐々に進みつつあります。

 

平面図の作成は,もちろん建物の基礎情報として,様々な応用的な調査において不可欠なものではありますが,この調査隊では,最終的には図面の縮尺によってつぶれてしまうような極めて高い精度の測量を行っています。その意図は寺院の設計方法の解明が重要な研究目的の一つに含まれているためです。究極的な目的としては,アンコール・ワットの設計方法を解明することにありますが,その類例,手がかりとしてベンメアレアを対象に分析を進めることが予定されています。

 

最終的には寺院全体の平面測量を計画していますが,順序としては,寺院内の各部分を細分化して,①十字回廊,②南北経蔵,③宮殿,とそれぞれ呼ばれている建物から測量を行っています。十字回廊はアンコール・ワットとの直接的な比較ができる可能性が高いため,経蔵は他寺院での分析例が多く,また南北で形状が異なっており興味が持たれるため,宮殿はアンコール・ワットには認められない特徴的な要素であることが,それぞれの理由です。

また,各建物ではそれぞれに副次的な研究テーマがありますが,その詳細はまた機会をおって紹介できたらと思います。

 

このように,寺院そのものの構成についても興味が持たれますが,それとは別に,寺院を取り巻く他の建物や貯水池などの施設についても調査を行っていく予定です。

実際には,雨季には踏査は難しいため,今後の乾季の調査に備えての予察的な調査として,今回は主要な関連遺構について確認をする程度です。

 

そうした関連遺構の配置を観察すると,ベンメアレア寺院以外の他の大型複合寺院と配置状の類似点などが見えてきます。コンポントムのプレア・カーンやバンテアイ・チュマール,その他アンコール遺跡群内の寺院でも見方によっては有意な関連遺構を抽出することができるかもしれません。なにか基本的なクメール都市の配置法がここから導き出せたら面白いことでしょう。

また,ベンメアレアは王道の分岐点にあり,立地上の重要性が高かったものと考えられます。王道と寺院,あるいは寺院周辺の様々な工作痕との関係も興味の対象となります。

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調査を行っている学生メンバーには,ランボーやらソルジャーという勇ましいニックネームで呼ばれている強者もいますが,肉弾戦の舞台にもよく似合うこの遺跡での調査は来年にかけて数ミッションにわたり進められる予定です。(一)

1994年に日本国政府アンコール遺跡救済チームの事業が始まり、最初に取り組んだ修復工事が「バイヨン寺院 北経蔵」でした。5年の工期を経て、日本政府によるアンコール遺跡での初めての工事は無事に完了。1999年に竣工式を迎えました。

それから10年、修復工事後の経過を観測するための点検を、当時の修復工事に参加していた日本人専門家と現在の修復スタッフが共同で9月12日に実施しました。

 

090913-1.JPG主に、次のような点検事項がチェックされました。 

1.建物全体の見え

2.砂岩新材への着生物

3.建物の変状

4.修復済み部材(組積材)

5.修復済み部材(横架材)

6.目地処理モルタル

7.目地充填改良土

8.基壇部の石目地の開きや水道

9.植物の侵食

 

点検の結果、修復完了から10年を経て、重大な問題は検出されず、良好な状況を保持していることが確認されました。一部の目地処理モルタルや充填用改良土では、充填量が小さい場合に、局所的にそうした充填材の剥落などの現状も認められました。また、処置を施していない石材そのものの多層剥離や、接着箇所の浮きが認められた箇所もありました。しかしながら、修復による副作用や修復材そのものの変状は認められず、石材自体の自然な劣化が進行したものでした。

 

090913-2.JPG遺跡の保存修復の正否は、短期的にはなかなか判断が難しいものです。アンコール遺跡群では20世紀前半より修復工事や整備事業が進められてきましたが、中には、修復工事によって遺跡の崩壊原因が新たに追加されたり、保存材料が石材に悪影響を与えて、かえって遺跡の劣化を進めてしまったこともあります。

今日、アンコール遺跡では、様々な国や機関が修復工事を進めていますが、そうした修復方法の共有化と標準仕様化が図られている一方で、いぜん、修復隊によって異なる工法が併用されています。アンコール遺跡の保全のための国際調整会議が年二回開催され、そうした保存の技術的な面についても協議がされていますが、実際にはどのような方法がベストか?というのは極めて難しい問題です。

アンコール遺跡で使用されている材料、熱帯雨林という環境、カンボジアという国において適切な修復工法、修復工事のライフサイクル、世界的な文化財に対する保存の考え方、などの様々な面を考慮すると、ベストな解答は一つではないかもしれません。

いずれにしても、重要なことは、完了した修復遺構を十分に観測し、適切な評価を与えていくことを各修復隊が積み重ねていくことにあるでしょう。ぜひ15年、20年点検と続けていきたいと考えています。

 

090913-3.JPG(一)

ここ1週間は連日の雨。

カンボジアの雨と言えばスコールで,短時間にバケツをひっくり返し,バスタブをひっくり返し,25mプールをひっくり返したような,激しい雨が普通ですが,この度の雨は,日本の梅雨を思わせるようなシトシトとした陰気な雨と,この猛烈スコールを織り交ぜた変幻自在の長雨でした。

調査のために,シェムリアップとコンポントムを行き来していると,日に日に水位が高くなり,ついに先日,カンボジアの大動脈の一つ,国道六号線が冠水しました。

 

090912-6.JPGトンレサップ湖の北岸を走るこの国道は,南流する雨水を堰き止めるように土手上に延びていますが,北側に溜まった雨水が遂に国道のレヴェルを越えて,湖側に流れ込んだのです。

国道沿いには高床式の家屋が建ち並んでいますが,その多くが床下浸水で高床式の威力を存分に発揮しています。

 

090912-3.JPG道路しか地面がなくなってしまったため,人も動物も家か道路に集まります。牛・豚・犬・鶏などなど家に入れない動物たちは揃って道沿いに出て並んでいます。道路からは投げ網で魚を捕る人達,車が通過したときの飛沫を全身に浴びて楽しむちょっと危ない子供達,もうなにもかも嫌になったのか,それともこんな非日常が楽しいのか,道に椅子を並べてビールを飲むおじさん達。道には,生活があふれ出しています。

 

090912-5.JPGここ国道六号線は12世紀にアンコール王朝の大王、ジャヤヴァルマン七世が整備した「王道」を20世紀前半に再整備した道です。この道について研究をしていた成果をようやく短い論文にまとめることができましたが、実はこれを執筆したものの、分からないままに取り残された課題も少なくありませんでした。

王道の途中にはラテライト造の橋がいくつか架けられていますが、この橋はある研究者によって二つの機能があると指摘されていました。一つはもちろん道を横断するため、そしてもう一つは土手状のこの道が雨水によって決壊するのを防ぐため、というものでした。後者の理由は、頭の中では理解されるものですが、なかなか実感がわかず、果たしてそんな目的が本当に必要だったのだろうか?こんな橋で貯水を放水することで決壊が防げたんだろうか?と疑問ではありましたが、今回の様子を見て、心底納得できました。

 

090912-1.JPGまた、自分で提案しながら不安であった、この土手を道路と併せて灌漑施設に利用したのではないか、という仮説もまた、十分に確かそうだという手応えを得ることができました。

アンコール遺跡は「水の都」と呼ばれるほどに、様々な水利施設が、宗教施設と一体化して都市を形作っています。雨季と乾季に二分される環境において、雨水を年間を通じて再配分するための施設が作られたわけです。とうぜん、乾季の水不足を解消することが大きな課題ではあったと思いますが、あわせて、雨季に猛威をふるう雨水をどうやってコントロールするのか、という点もまた重要な点であったことでしょう。

 

090912-4.JPGサンボー・プレイ・クック遺跡にもいくつかの水利施設が確認されつつあります。これらの施設、いつもは見ていてもとても不思議です。ちょろちょろと流れるような小川に立派な土手が築かれ、水路が通され、貯水湖が設けられる。はたして、こんな施設がどれほど役に立ったのだろうか?と。

しかし、こうした自然の力強さを目の当たりにして、いつ来るとも知れない不測の事態に備えて公共施設が築かれたという様子が想像されます。年間を通じて恒常的に利用された施設と、突発的な災害時にこそ力を発揮する施設とが、ここには複雑に組み込まれていたようです。(一)

 

*文中の論文

下田一太、中川武「新旧の王都をつなぐ古道について-クメール古代都市イーシャナプラの構造に関する研究 その2」日本建築学会 計画系論文集,No.642, pp. 1867-1874.

現在修復工事が進められている「バイヨン寺院南経蔵」。

この建物の修復の際に基壇を解体したところ,内部よりラテライト造の構造体が出土しました。通常,アンコール遺跡の基壇は,外側より「砂岩>ラテライト>版築土」の三層構造となっていることが知られていましたが,今回の修復工事では,この最内核部の版築土の内側からさらに構造体が検出されたのです。

 

090909.JPGこの構造体は,上下面のないボックス状の遺構で,東西に長い基壇の内部に,二つ呑み込まれるようにして配置されていました。この遺構がどのような目的で内部に設置されたのかはこれまでのところ定かではありませんが,①前身遺構,②構造的補強のための構造体,の二つの可能性が大きくは推測されます。

こうした内部構造体が検出された事例はアンコール遺跡において他に類例がなく,慎重な検討を要するところです。

現在,基壇上部の土層を削り取るようにして調査を行い,この構造体の形状や組積の特徴,周囲の土質の違いや強度などの試験を進めています。

(一)

サンボー・プレイ・クック遺跡群は7世紀の王都「イーシャナプラ」の都城址です。たくさんの煉瓦造寺院が残されていることで知られています。最近は,シェムリアップからの日帰り旅行やプノンペン-シェムリアップ間の移動時に立ち寄る観光客も増えてきています。

 

観光客が多く見学に訪れる寺院が建ち並ぶ地区の西側には,1辺2kmの正方形の環壕に囲まれた都城の跡地が残されています。これまで,この地区での調査はあまり進められていませんでしたが,ここ数年の間にサンボー・プレイ・クック遺跡群保全事業(早稲田大学建築史研究室とカンボジア文化芸術省の共同事業)により,踏査が進められ,60近くの寺院跡が記録されるに到っています。その他,地上に落ちている遺物を収集する表採調査や,都城内の村落の調査が行われています。

 

このたび,2009年8月より,この都城内では初めての発掘調査が行われました。地元の人々によってド・モンと呼ばれている寺院跡地での発掘調査です。

この寺院は,都城の東側に位置しており,寺院が集中している地区と都城を連結する上で重要な地点にあります。寺院地区と都城の間にはオー・クル・ケーと呼ばれる川が流れていますが,この川の西岸に位置しており,寺院から川を渡って都城へと入城した際に表玄関となるべき寺院であった可能性があります。

 

都城内の寺院の多くは崩壊が著しく,寺院の建材であった煉瓦がマウンドとなって散乱しているだけの状態に倒壊しているのが一般的ですが,ここド・モン寺院では祠堂の一つが比較的良好な状態で保存されています。寺院の形式や装飾様式は,寺院区の主要な祠堂と類似しており,そのために七世紀の建物であることが推測されます。

 

寺院は東面し,東西に長い長方形の境内を寺域としていたようで,周囲から一段高くなった土地に位置しています。寺院は周壁に囲まれていたようで,今回の調査ではこの周壁を明らかにするための発掘調査が行われました。

周壁の東門と北東隅に推測される地点にトレンチが入れられ,発掘調査が進められました。いずれの発掘地点ともに予想されていた東門と周壁隅の遺構が出土しました。

 

しかしながら,発掘調査で予想通りにことが進むことはありません。

それが発掘調査の面白さ,醍醐味でもあるわけですが。。。

 

当初,考えていた構造とはずいぶんと異なる遺構が検出されました。東門は建造精度が著しく低く,寺院内の祠堂とはかけ離れた精度です。また,これまで一週間の調査が進められた限りでは,後世に増築されていた可能性も推測されます。

 

サンボー・プレイ・クック遺跡の寺院内でのこれまでの発掘調査では,アンコール時代に到ってからの増改築の痕跡は頻繁に確認されてきました。そのため,少なくとも宗教センターとしてはこの地区はアンコール時代に至ってからも重要な地方拠点であったことが推測されてきました。しかしながら,都城内では,王都であった七世紀に最盛期を誇り,その後はその重要性を失っていったものと考えることもできました。

 

今回の小規模な調査の結果からだけでは十分なことは判りませんが,想像を逞しくするならば,アンコール時代に至ってから後,都城内もまたその重要性を失わずに様々な活動が継続されていた様子を思い描くことができます。

 

この発掘調査の結果については,また後日,続報をお伝えしたいと思います。

 

なお,本調査は,プノンペン芸術大学の考古学部生,メコン大学の建築学部生への研修が同時に進められている他,早稲田大学オープン科目の実習授業の場として,日本からの学生も多数参加しています。

サンボー・プレイ・クック遺跡群保全事業は「文化財保護・研究助成財団」と「住友財団」からの支援を得て進められています。(一)

例年8~9月は日本からたくさんの調査隊がやってきます。今年もまた様々な修復や調査チームが来ていますが,今回はその中でもバイヨン寺院の回廊に彫刻された「浮き彫りの保存研究グループ」の活動について紹介します。

 

この研究グループは沢田正昭先生(日本修復科学会会長・国士舘大学教授)率いる,保存科学を専門としたチームで,3年前より文部科学省科学研究費の採択を受け研究を開始しました。

 

バイヨン寺院の浮き彫りは,神話や伝説,そして当時の日常生活や戦闘の場面が,内外二重の計900mにおよぶ回廊の壁面に描かれたもので,当時の宗教観や精神世界を知るために極めて貴重な痕跡です。

この回廊のうち,特に内回廊の石材に彫り込まれた浮き彫りの劣化が深刻です。

 

石材の劣化は様々な原因によって進行するものと考えられていますが,この問題に取り組むために,保存科学の他,岩石学や生物学などの研究があわせて進められています。また,劣化のメカニズムの解明とあわせて,劣化の進行を抑え,保存するための方法について研究が行われています。

 

石材表面の様々な着生物の除去,劣化した石材の強化,破損した石材の修復方法の開発に取り組まれていますが,一年を通して高温多湿,という熱帯雨林の環境下において,石材を解体することなく現場でこれらの処置を完了することが技術的に大きな課題となっています。

 

この度9月3日に,これまでの研究成果と保存科学の基本的な調査の方法などをカンボジア人の修復専門家に指導するワークショップが行われました。実体顕微鏡や偏光顕微鏡で劣化した石材や表面の生物を観察したり,石材表面の温度を観測するための赤外線カメラの使用方法について紹介したり,石材強化剤の使用方法やメカニズムの講習をしたりと,いろいろな機材や材料に触れる機会となりました。

 

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様々なモノや機器を〈覗いたり・触ったり・嗅いだり・叩いたり〉する五感をフルに活用して保存のための調査や技術が開発される場にちょっと立ち会うことができたように思えました。

 

また,筑波大学の松井敏也先生からは,出土した考古学遺物を迅速に保存処置するために最近開発された「遺物保存救急箱」の実演をいただきました。発掘調査で出土した木材,金属,土器など様々な遺物の予備的な保存処置を可能とする便利箱です。

 

 

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