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少し日が経ってしまいましたが、コーケル遺跡群の調査は連日続いています。

 

これまでに、以下の調査が進行中です。

調査班1:遺跡群内の主要な寺院の平面測量(過去に測量機器を用いた実測を終えており、今回はマニュアルで採寸する作業。一日でおよそ3寺院の採寸を終えています。)

 

調査班2:過去の基準点の確認とハンガリー調査隊への情報提供(今回の調査ミッションで予定している微地形測量に用いる基準点の確認。また、いくつかの寺院で測量を開始したハンガリー隊に、私たちが過去に計測した測量成果を電子情報と現場確認の上で伝える作業。)

 

調査班3:遺跡群全域の構造に関する調査(北方調査については先日お伝えしましたが、その後も貯水池ラハルの西側調査や遺跡群全体の北西域の調査を行いました。ラハル西の調査では自然形状か人工構造物か定かではありませんが、直線的な土手状の起伏が確認されました。また、北西域の調査では、「王道」の明瞭な痕跡とラテライト造の橋が確認されました。

 

また、26日には2名の調査団員がシェムリアップに到着。27日からは2台に分乗して遺跡に向かっています。(一)

昨2008年、クレーン会社である「タダノ」よりカンボジアのアンコール遺跡群の修復事業を進める日本チームに、同社製のラフテレーン16tクレーン、カーゴトラックそして高所作業車の三台が寄贈されました。

過去にも「モアイ像」の修復や「高松塚古墳」の解体工事にクレーンを提供されてきた会社です。

今後、奈良文化財研究所により、修復工事の開始が計画されているアンコールトム内の「西トップ寺院」で活躍する予定ですが、2月24日から25日にかけて16tクレーンの操作講習が奈良文化財研究所シェムリアップ事務所にて行われました。オペレーターの育成も同社からの機材支援の一環となるバックアップとして実施されたものです。

これまで日本国政府修復チームで、25tクレーンの操縦を担ってきたカンボジア人オペレーターのうち2名が参加しましたが、電子制御のオペレーションにやや戸惑いながらも、美しいボディーにコンパクトで高性能のクレーンの操縦に取り組みました。(一)

カンボジア国内の遠方遺跡の多くは、近年アクセスが改善されてきましたが、未だに訪れるのが困難な遺跡の一つが、コンポンスヴァイの「プレア・カーン」です。2月24日、元在カンボジア日本国大使の内藤ご夫妻を、修復チーム団長である中川武教授が御案内しました。

 

日帰りでしたが、出発から帰着まで12時間以上、その大半が悪路の車内。

調査には岩石学の専門家である内田悦生(早稲田大学教授)が同行され、当遺跡群の石材の調査を行いました。過去にも数度、遺跡を訪れていますが、今回は石材の「帯磁率」という特性を測定することが主な目的でした。過去の調査で、この帯磁率によって建造編年を分析できる可能性が確認されており、それを追補する調査となりました。

 

調査の前日には、プレア・カーン遺跡群の帯磁率をめぐって、EFEOのクリストファー・ポチエ教授、ドイツ修復隊のハンス・ライセン教授夫妻、シドニー大学の研究者らがJASAオフィスにて討議をした上での現場調査でありました。

プレア・カーン遺跡では、碑文学・美術史学より寺院の編年が推測されていますが、今回の調査によって建物の増築の経過がさらに詳細に見えてきました。(一)

コーケル調査は2日目に入りました。

今日も2班に分かれての調査です。

 

第2班は昨日の続きということで遺構の採寸を進めます。今日はPrasat Balan, Prasat Thnen, Prasat GそしてPrasat Andon Kukの途中までを採寸しました。遺構の残りがあまり良くないため、復元的な考察を要するこの調査は個別に工夫しながら測ってゆく必要があります。

 

さて、第1班は本日たいへんな調査になりました。こちらのメンバーはこれまでに世界各地の遺跡で測量を中心とした考古学的調査を経験されている内田賢二先生と、アンコール遺跡ではすでに10年以上のキャリアとなる早稲田大学測量実習室の金沢誠先生が同行されました。

コーケル遺跡群の北方を横切る王道の踏査です。

通常、遠方の踏査にくり出す際にはバイクに乗っていきますが、今回はより速度を落として目線を配りながら進もう、ということで徒歩での行程。9時20分ころの出発でした。

遺跡北側の村を通過し、遺跡群と王道の連絡路となる土手道を北進します。遺跡群の北側と西側には直線的な土手が確認されますが、これに加えて、北方へと走るこの土手道は航空写真からも良く観察される遺構です。土手を進むとラテライトのブロックが路肩を造っています。途中、沿道に少し入ったところには煉瓦造の祠堂も確認されます。

踏査では航空写真をつかって常に位置を確認しながら歩を進めます。最近では携帯型GPSとノートパソコンをつないで、カシミールなどのソフトを使えば簡単に現位置を写真上で確認しながら踏査ができますので、航空写真上に見えている俯瞰的な環境状況と、地上に立って周囲を見渡すという二つの視点を併せ持ちながら進むことができます。

今回の調査では、東京大学新領域の南雲直子さんがランドサットからの衛星写真上に航空写真を位置あわせしたナビゲーション用の地図を準備してくれました。

航空写真より土手道の存在は確認されていたのですが、思っていた以上に幅の広いもので当時はさぞかし立派な大通りであった様子がうかがわれます。土手道は約1.5kmにわたって延びており、その先には大型のラテライトの遺構が残されていました。おそらくここで一度土手道は途切れているようで、遺跡群から延びる道の北端をなしています。さらに少し進むと再び土手道が現れます。

新しく入植したばかりという風情の村が現れ、高床式の家々が列ぶ小さな村が土手道に沿って並んでいます。土手道は先の道よりもかなり細くなりますが、その分、周囲の地表面からの比高が大きくなります。ラテライト造の路肩もまだまだ続きます。

2kmを北進したあたりで土手道は緩やかに北西に折れます。この土手は道であると同時にダムであったことも推測されるところで、航空写真を見る限りではこのダムに堰き止められた川が大きく蛇行している様子も見られます。このダム上の土手沿いには、ラテライトの遺構が不規則にあるようで、ちょっと眺めた程度ではその構造、機能は分かりませんが、なんらかの施設跡であることは明らかです。

道は徐々にジャングルの中に消えてゆきます。木々をかき分けながら、何とか進むような状況です。しかしまだまだラテライトの遺構は続いてきます。たいへん興味深いところですが、木々に囲まれた状況で、この遺構の全景をどのようにして表現するのか、というのは今後の難しい課題として残されそうです。

  

090222.JPG持ってきた水も徐々に底をつきつつある中、北方に蛇行するセン川の支流にようやくのこと到達しました。もはや12時をすぎています。暑さで朦朧とする中、ほとんど干上がった川底の岩盤に腰を下ろします。河床には柱穴らしきものが列んでいます。いつの時代のものでしょうか。

 

ここで昼食を取ることにしました。遺跡群へ来る途中で買った竹筒ご飯が昼食です。川底に残った水の中に泳ぐ魚と飯を分け合いながらの食事。

この段階でかなりへばっていた私たちは、まだ数キロはあるだろう王道の痕跡までの最終アタックをかけるかどうか悩みましたが、引き返すのは惜しい、ということで当初の目的地、王道跡まで踏査を続けることにしました。

最も暑い時間にさらに1時間半ほど歩いたところで、ふと航空写真を確認すると、どうやら既に王道を100mほどすぎた地点に立っているではありませんか。緩やかに盛り上がった道の存在を固く信じていた私たちにとっては、とても気づかずに通り過ぎてしまうようなものだとは思わなかったのですが。その後、思い脚を引きずりながら歩き回りましたが、結局王道の跡は確認することができず。

実はこの調査、地元の青年に道案内をしてもらっていたのですが、彼がこの近くに遺跡があるのを知っているということで、今度はその寺院探しが始まりました。しばらく歩いて、もうさすがに限界かと思われたところで、茂みの中に立派なラテライトの壁が見えてきたではないですか!

煉瓦造の主祠堂に経蔵を一基付け、東側に砂岩造りの門を構えるラテライトの周壁を巡らせた寺院がありました。王道そのものの痕跡は認められませんでしたが、この沿道に位置する遺構です。後から既存の遺跡分布地図で確認したところ、Pr. Ta Maenであることが確認されました。

この時すでに時間は午後3時。これから今日来た道を引き返すかと思うと、あまりに厳しい状況でしたが、尻をたたいて帰路につきました。再び1時間半ほど歩いたところで、村落に到着。そこには2台のバイクが!

今日一番の発見だったかもしれません。バイクに乗ってしまえば、ほんとに近いもので。あっという間に到着。

本当にお疲れ様でした。(一)

 

*本研究事業は日本国政府文部科学省科学研究費補助金による助成研究「クメール帝国地方拠点の都市遺跡と寺院遺構に関する研究」のもとに進められています。

コーケル遺跡群は、アンコール遺跡群の位置するシェムリアップより約80km離れた、当時は「チョック・ガルギャール」とよばれたクメールの古代都市の一つです。

アンコール王朝、第七代目の王「ジャヤヴァルマン四世」が王神をこの新しい都に遷したのが10世紀前半、921年のこと。しかし、この遺跡群が王都であったのはたった20年ほどの期間で、王の死と同時にすぐさまアンコールの地に再遷都された短命の都でした。

今日から、3週間ほど、この遺跡群の調査研究についてお伝えしたいと思います。

日本国政府アンコール遺跡救済チームでは、シェムリアップより遠方に位置する遺跡群の調査研究も進めていますが、ここコーケル遺跡群では2005年に早稲田大学の調査隊が調査を実施しました。この時の資料は遺跡群目録としてまとめられています。

その当時、遺跡群はカンボジア文化芸術省の管轄にありましたが、その後、アプサラ機構の管轄下に移動されます。現在では、アプサラ機構のスタッフ約70名が遺跡群内の各寺院の清掃、メンテナンス、ガードなどを進め、ここ数年の間に遺跡群内は見違えるように整備されました。

また、アプサラ機構により小規模ではありますが、貯水地の水門や王宮内と推測される地域3カ所にて考古学的発掘調査が実施されました。

文化芸術省とEFEOの共同研究であるCISARKでも、過去数年の間に、コーケル遺跡群の調査が行われ、網羅的に遺構の確認がなされました。

2007年からは、名城大学(代表:溝口昭則教授)と早稲田大学との共同チームによりさらなる研究が進められています。また、最近ではシドニー大学の調査隊が、主に衛星写真を利用したリモートセンシングにもとづく調査を進めているほか、今年2月からは3年間の大型研究プロジェクトとして、ハンガリーの研究者を中心としたRoyal Angkor Foundationによる調査が開始されました。

そういったことで、この遺跡群の研究活動は盛り上がりつつあります。

 

このブログでは、第6次ミッションとなる「名城大学+早稲田大学」の研究事業についてご紹介していきたいと思います。

今日2月21日が調査第一日目となりましたが、調査団第一陣となる4名は2日前にシェムリアップ入り。こちらに保管している機材チェックなどをすませました。

これまでに調査許可を取得した他、調査に必要となる衛星写真・航空写真・地雷撤去エリアの情報など各種の資料を準備しました。

また、先週のうちに、2週間前より現地調査を開始したハンガリー隊とのミーティングをJASA事務所にて数回実施。ハンガリー隊と調査成果の交換を約束するメモランダムを締結することとなりました。

 

数ヶ月ぶりに訪れたコーケル遺跡群への道は、前回よりもかなり悪くなっており、高速ドライバーで有名なわが調査隊の車でも2時間10分ほどかかりました。今回の調査は、日帰りを繰り返すことを予定していますが、道の悪化のため、現地滞在の可能性を考えざるを得ない状況となり、今日は近くにできたゲストハウスをのぞいてきました。数ヶ月前にオープンしたゲストハウスは、思った以上に清潔で、シャワーもついており、最寄りのスラヤン村に以前よりあったゲストハウスよりも格段に上等な宿泊施設でした。すぐには決められませんが、往復に毎日4時間以上を費やすことを考えると、こちらのゲストハウス滞在は望ましいようにも思われました。

さて、午前中は、現地のアプサラ機構担当官のソムナム氏との久しぶりの再会の後、ハンガリー隊の調査の様子を見て回りました。いくつかの調査が並行して進められていますが、写真測量による遺構の図面化、池や門といった寺院周囲の付属施設を取り込むための測量などが主要な仕事となっています。その他、陶磁器の表採調査やセスナによる遺跡上空からの調査なども興味深い内容でした。

また、私たちの調査隊の過去の測量について説明した後、実際に現存している基準点を紹介し、ハンガリー隊にも有用な資料の提供の相談などを行いました。特に、写真測量を進めている遺構において、地球上の精確な番地情報をこちらから提供することとなりました。

午後の調査では、二班に分かれ、第一班は遺構の選地条件を検討すべく微地形測量を実施するための対象遺構の選定を進めました。

第二班は、これまでにGPS測位>トータルステーションによる平面測量を終えた寺院において、残存する遺構の状況を読みながら復元図面をおこすための採寸をPr. Bantay Pir ChanとPr. Dの両遺構において実施しました。

夜はこのブログを書いている横で、現地計測の野帳をもとに、二名の学生が図面をおこしています。(一)

 

*本研究事業は日本国政府文部科学省科学研究費補助金による助成研究「クメール帝国地方拠点の都市遺跡と寺院遺構に関する研究」のもとに進められています。

中央塔の上部荷重を支えている壁体の下の構造を確認することが、今回の発掘調査の最大の目的でした。

中央塔西室でこれは断念し、第6塔でこれを確認しようとしましたが、先日、壁体足下の敷石を解体したところ、やはりこれ以上の解体は難しいと断念し。。。

しかし、今日はこの掘り下げてきた発掘穴より側面に水平ボーリングを入れて、これを確認することに挑戦しました。

人力のボーリング、ハンドオーガーです。

通常、ハンドオーガーの専用のスティックがありますが、これは長すぎて、かがむのも一苦労な狭い発掘穴の中では使えません。

そこで、今回は掃除機の吸い込みパイプを改造して、手製のスティックを準備しました。スティックの先を波形に切り込んで、先端で掘削できるようにしたのです。これで掃除機は通常どおりには使えなくなりました。

まず、穴の北面に一本、このスティックを差し込みました。

しかし結果、たった15cmでラテライトにあたり、断念。

こりずに、その脇10cmほどで再挑戦しましたが、やはり15cmでラテライトにはばまれ断念。

しかしこれに懲りず、再びその脇で三度挑戦。

堅い土層にはばまれて難航しましたが、結局1.5mの深さ(水平長さ)まで差し込まれました。この長さは第6塔の壁の直下よりも大きく奥まで貫入しているものです。つまり、この結果から壁体の直下にはラテライト層はないものと推測されたのです。

南面でさらに2本、ここでは54cmと78cmでラテライトにあたりました。壁体直下にほぼ相当する長さです。

さらに東西面で実施しましたが、途中で土中の栗石にあたったりして掃除機のパイプがもつ最大限の能力を発揮できずに終わりました。

最初に実施したハンドオーガー2本の15cmという最短記録のエリアでは、その後、側壁を切り崩してラテライト自体を確認することとなりました。すると、ラテライトが4材、一列に積み重なっているのが確認されたのです。

これは全くランダムな構造です。たしか、EFEOが過去に第12塔内で縦穴を掘り下げた調査でも同様に土中から不規則な石材が検出された記録が残されています。アンコール・ワット中央塔の発掘調査の報告の中にもやはり同様の記載と図面が見られます。

こうした不規則な土中の石積みはいったい何を意味しているのでしょうか?(一)

 

*本調査は㈱竹中工務店の研究助成を得て進められています。

当初、今回の調査はできるだけ必要最小限の労力で効果的に必要箇所を確認して終了しようと、いうことで始められました。

しかし、発掘調査の常。そんなに事は容易には片づきません。常に期待と予想を裏切ってくれます。

 

そんなことで、すでに10日目に入ってしまいました。

 

室内中央の盗掘孔を掘り下げます。ますます白色の栗石が多くなり、変わらず濃い褐色土が続きます。上層と異なり、この土は均質で埋め戻しの際に利用されたとは考えにくいのですが、それにしては土が緩く創建当初のものともまた考えにくい状態です。

掘り下げが進み、壁が大きくなってきましたので、側面をクリーニングしていくことになりました。床面となる砂岩の下層のラテライトの下にはもはや石材はないようです。

先日確認されたのと同様に、やや水平に拡張すると堅い土が現れます。一部には栗石が混じっていますが不規則です。この壁、垂直に立っているわけではなく、下方に行くほど広くなっており、全体としてオーバーハングするようです。この勾配がどこまで続くのかは分かりませんが、あまり下層で広げてしまうと、発掘穴そのものが崩れてしまう危険性もあります。

堅い壁体の表面を広げていきますと、軟らかい中央部の土とこの壁の間には薄い汚れた黒い層が挟まっていることが確認されました。つまり、ここからは、堅い壁体が一時期露出されたままに放置されていた時代があったことを推測することができます。

このため、中央部の白色の栗石混じりの軟らかい土は、盗掘後にやや時間がたってから梅戻されたものである可能性が高まってきました。(一)

 

*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成を得て進められています。

 

出土品、水晶にさらなる期待が高まり、北西隅の柱穴の現状のレヴェルから底を断ち割って土層状況の確認、ならびに下層の遺物の検出を試みましたが、残念ながらそれまで。

この柱穴からはさらなる発見はありませんでした。

再び室内中央の盗掘孔の掘り下げ調査にとりかかります。床面からの深さ120cmあたりから、白色の栗石が多く混ざるようになり、それまでとは様子が変わってきました。また、穴の底は濃い褐色土が続いていますが、壁側面をやや広げると、かなり締まった白色がかった土が見えてきます。

山中式硬度計で確認したところ、穴の中心の緩い土は1kg/cm2ほどであるのに対して、側面は9~30kg/cm2と相当締まっています。現在修復を進めている南経蔵の基壇内部の再構築の版築土と同程度の強度が確認されたのです。

さらに、第6塔の壁体直下の構造を確認することを目的として、盗掘孔と壁体の間の敷石を取り外し、解体することを検討しました。中央塔西室で確認されたように、最上層の下に大きな石材が敷き詰められているならば、この狭い空間で石材を壊さずに解体することはほぼ不可能です。

調査終了間際に、北壁の手前の敷石を取り外しました。

残念。再び下層には大きな石材が、もはやこれ以上の解体は絶対阻止、とばかりに現れました。。。(一)

*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成を得て進められています。

 

2009年2月に実施した中央塔西室での発掘調査に引き続き,3月からは中央室にてボーリング調査を予定しています。発掘調査についての報告が尻切れトンボになっていましたので,新たにボーリング調査を実施する前に,一度まとめておきたいと思います。

 

 

2月23日より約10日間かけて以下のとおり,発掘抗の埋め戻し,解体石材の再構築の作業を行いました。

 

発掘抗の底に、「2009JASA」の刻印を押した鉛板を置き、将来的に再発掘調査があった際の目安としました。また、底には発掘時に掘り出した土とは異なる砂を敷き詰め、やはり将来の目印としました。昨年の中央塔の埋め戻し時と同様に,中央には塩ビ管を設置し,将来的にボーリング調査を実施する場合に,再発掘を省くための処置を施しました。解体時に劣化・破損していた石材は修復し、それらの石材の再設置も行いました。暗い室内で床面にでこぼこがあると危険なため,柱穴や台座周辺の窪みにはある配合にもとづいた土を詰め,平らにしました。

 

 

今回の調査は当初の目的からはやや外れて,予想外の経過をたどりましたが、いくつかの重要な事実と知見が得られました。それらを下にまとめます。

 

 

1.中央塔群の壁体直下には石材による支持構造体は存在しない可能性が高まった

 

これについては、昨年夏の調査で中央室内でも一部で確認されたことですが、今回は西副室である第6塔の北壁にて同様の結果が得られました。また、東西の扉開口部直下においても、支持構造体は認められず、これは中央室の西扉開口部の結果と整合的でした。

この点については,中央塔の基礎構造を考える上できわめて重要であるため,さらに,3月のボーリング調査時に中央室の北東エリアにて追調査を予定しています。

 

 

2.地下にはラテライトの構造体がランダムに配されている

 

西副室の発掘孔の北側壁ではラテライトが5材、柱状に積み重ねられているのが確認されました。発掘孔内の他の面では認められず,こうした石材は床面下に不規則に配されているように推測されます。1934年にEFEOの保存官マーシャルによって行われた塔12(中央塔群東側の塔)内での発掘調査の記録からも,やはり地下のラテライト造が南北で異なった配置をとっていることが認められます。

このことは何を意味しているのでしょうか?ただ単純に建設工事が粗雑であったということを意味しているだけでしょうか?その可能性も否定できません。

しかしながら,たとえば,今に見る中央塔群の建設前に前身の遺構が存在したことも想像できます。また,建設途中で計画変更があった可能性も推測しえます。

バイヨン寺院が増改築を重ねていることは,パルマンティエによって指摘されて以来,何度となく報告されていることですが,近年フランス人研究者クニン・オリビエが,これについて精査を加え包括的な整理をしました。

第一期には伽藍中央の背の高いテラスだけが構築され,その上には現在の中央室だけが配されていたと彼は考えます。この最初期の復元イメージにはいくつか疑問視される点が残りますが,中央東室(第2塔)の床面に残る柱穴の一部が上部壁体の下にのみ込まれているような状況からすれば,現在の姿とは全く異なった第一期の建物が存在していた可能性は十分に考え得るところです。

 

 

今回の調査からでは不明瞭な点も挙げられます。

その一つが、塔地下の鎮壇具の設置箇所についてです。

 

盗掘によって攪乱された土砂の中から,数粒の水晶が発見されたことにより,ここ西副室内にかつて鎮壇具が納められていたことは明らかといえるでしょう。

しかしながら,鎮壇具などが安置された塔の地下の明瞭な構造は確認することができませんでした。

 

室内に配された台座直下には円形の穴が穿たれていましたが、この直下には割栗石混じりの非常に緩い砂が盗掘孔に埋められていました。この緩い砂は、深さ120cmまでで,その下層では土の色は異なっており、また割栗石も白色のものとなったため、何らかの土層の違いがあることは明らかです。単純に考えると,この深さに鎮壇具が配されており,その下は建設時の土砂,上は鎮壇具が安置されていたものの,それらが盗掘された後に埋め戻された土,であったとすることができます。近年,修復工事中に南経蔵で発見された鎮壇具もおよそこの程度の深さで発見されました。

 

 

この120cmよりも下層では、砂がきれいで割栗石も分散して混ざっており、盗掘後にいい加減な作業で埋め戻されたようにはとても思えないのですが、しかしながら,砂自体は相当緩んでおり、盗掘孔側面の明らかにオリジナルな版築層とは異なっています。(ここで検出した割栗石は,流紋岩で火山灰系のたいへん目の細かいもので、この周辺ではクロム山に良く見られるものです。また気になるのは,この種類の石材の割栗石は中央塔直下の発掘からは認められませんでした。)

通常,塔直下の土層は堅く締め固められており,ここで確認されたような緩い土とは異なっています。

 

そのため,この塔内の盗掘孔はこの120cmの深さよりもさらに下方へと続いていると見ることもできます。当初は堅く突き固められていたものの,一度盗掘によって掘り上げられた土が,穴の中に再び投げ入れられた際に緩んだものと考えられるのです。

 

オリジナルの版築層の壁面を観察してみると,深さ約120cmあたりで小さな段差がみられます。ですので,このレヴェルで鎮壇具などが安置されていたなんらかの構造や仕組みがあったことがここからも推測されるところです。

このように考えると、過去の盗掘者はこの120cmの深さで,安置物を発見したものの,その下方に別のものがあることを期待してさらに掘り下げの作業を続けたのではないかと考えることができます。

 

盗掘者達はバイヨン寺院の各塔で隈無く盗掘を行っていたようですので,そうした期待は,他の塔での経験をもとにした確信に満ちたものであったものかもしれません。

 

各塔の中では建設工事にまつわり,地鎮祭に始まる様々な儀式が各建設の段階であったと想像されます。つまり、塔の地下には何段階かに渡ってそうした儀式に用いた奉納物が納められていることも考えられるでしょう。

 

ただ、今回の盗掘孔は歪んだ円形をしていますが、径の小さなもので、一人がようやく中に入れる程。この小さな穴の中で、それほど深くまで掘り下げられたかどうかは疑問が残るところです。

 

と、だんだんと考察が混乱し、思考が錯綜していきますが、こうした疑問を常にはらみながら、調査は一つずつ終わって、次なる段階へと進むようです。

最終的には、公式な報告書にて整理された調査結果をご紹介いたします。(一)

 

*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成を得て進められています。

 

カンボジアはこのところ毎日どんどんと暑くなっています。昼過ぎの太陽は凶器と化しています。

 

今日は第6塔の盗掘孔の記録から始まりました。断面図や平面図が作成されました。

その後,台座の四隅に穿たれている天蓋を支えていたと思われる柱穴にて発掘調査を行いました。バイヨン寺院の各塔に設置されている台座の四隅にはいずれもこうした柱穴が残されています。各隅に1つずつの穴がある場合,2つずつ、3つずつの場合,また楕円形の穴が斜めにある場合など,いくつかのパターンがありますが,ここ第6塔では,楕円形の穴が台座の四隅に穿たれています。

 

 

090212.JPG柱穴は堆積土が砂岩の端材などを伴い詰まっています。それらを上面より少しずつ削り取りながら発掘を進めます。基本的には堆積土だろうということで,それほど注意されることはありませんでしたが,南東隅の柱穴の底にさしかかったとき,何か鈍い感触がありました。色も,それまでの暗い茶色から白みがかった黄褐色です。少し取り上げてみると,ずっしりと重みがあって,ラテライトとも異なります。どうやら鉛のようです。丹念に底をクリーニングしてゆくと,不整形ではありますが,穴の底に張り付くようにして鉛が見られました。

 

過去に,サンボー・プレイ・クック遺跡群の北グループで塔室内の発掘調査をした際にも,やはり扉の軸ずりの穴の底から鉛が検出されたことがあります。その時は,現場で鉛を溶かして穴に流し込んだものと考えました。それによって扉の回転をスムーズにしたのではないかと推測したのです。いくつかの塔の扉の軸ずり穴から同様に鉛が確認されましたので,その推測は正しいのではないかと思われます。

 

ただ,バイヨン寺院他,アンコール遺跡群からは同様の痕跡はこれまで認められていません。過去にバイヨン北経蔵の解体修復工事を実施した際には,石材間を連結する「かすがい」のまわりから鉛が発見されたことがあります。かすがいそのものは純度の高い鉄が使われていました。クメール建築で発見されているかすがいは,大きさや形状がそれぞれで不規則です。同じモールドを使って規格的に造られたわけでありません。ですので,おそらく準備されたかすがいの一つを当時の工人は手にとって,現場でそのカタチにあわせて,石材を削り込んだものと思われます。ただ,当然,鑿で削り込んでも,精緻にかすがいと同じ形状の欠き込みは造れません。そこで,かすがいを穴にはめ込んだ後,石材との隙間に鉛を流し込んで固定したものと考えられます。

 

今日では,遺跡群内のかすがいの多くは盗掘されてしまっています。かすがいのありそうな石材に穴を彫って,抜き取られてしまったのです。また,近年の修復工事では,解体の際にかすがいを填めていた穴だけが残り,かすがいそのものは残されていないケースもよく見られます。それらは過去に解体された痕跡はないのですが。研究者によっては,石材を積み上げて,現場で削って形状を整えたりする際に,石材が動かないように一時的に固定し,作業が終わってから取り外したのではないかと考える人もいます。

 

さて,柱穴の発掘はさらに進みます。北西隅の柱穴は,ちょうどいい大きさの石材で塞がれていました。まずはこの石材を取り外します。石材の下面には壁体のモールディングの彫刻が施されていましたので,どこかに散乱していた端材を転用したものであることが明らかです。ただ,あまりにもしっかりと嵌め込まれていたので,人為的に設置された可能性も高そうです。

 

この石材の下には再びの堆積土。汚い黒い土が溜まっています。先の柱穴では鉛が見つかったこともあり,今回はさらに慎重に掘り下げていきます。

 

およそ20cm掘り下げたところで,土の中に何かかすかに反射する小さな光が目に入りました。取り上げてみると薄曇ったガラスのような破片。暗い室内から扉の外の光にかざしてみると,不規則に面がとられている結晶であることが分かりました。クリスタル。『水晶』です!

 

暗闇で重く沈んでいた気持ちが突然高ぶります。さらに柱穴を掘り下げてゆくと再び水晶の粒が。最終的には5粒の水晶が出土したのです。

 

いずれも汚い堆積土に混ざっていましたので,これが安置されたものであったのか,それとも盗掘で取りこぼされて,ここに残されたものであるかは定かではありません。ただ,柱穴を塞いでいた石が丁寧に収められていたことを考えると,後世に鎮めの儀式などがここで執り行われた際に納められたことを想像することもできるでしょう。(一)

 

*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成を得て進められています。

屈強な作業員8人がかりで,第6塔室内に設置されていた台座が移動されました。その下には,過去に盗掘孔が埋め戻された際の玉石がたくさん詰め込まれていました。

盗掘孔を再度掘り下げる調査が始まりました。土砂に混ざって,拳大の石がたくさん取り出されます。これらの玉石は,砂岩と礫岩とが混ざっており,砂岩の中には連子子の一部や台座の端片などが含まれています。

バイヨン寺院では,建物の基礎となる班築土の中には割栗石として礫岩が混ざっていますが,通常、砂岩は基壇内部の割栗石には利用されていません。つまり,砂岩と礫岩とが混ざっているということは,盗掘孔は建立当初,礫岩混じりの版築土によって埋められていたことが推測されます。周囲に散乱していた砂岩片がこの版築土に混入し,再び盗掘孔の埋め戻しの際に利用されたと想定されるのです。

徐々に掘り下げてゆくと,床面をなす砂岩敷きの下層には砂岩一層とラテライト一層が確認され,床面から約72cmの深さで,穴の側面は版築層となりました。盗掘孔の底はまだ玉石混じりの土砂が溜まっており,さらに掘り下げてゆきます。

穴はやや楕円形にゆがんでいますが,直径60cm程の大きさで,人がようやく一人入れるサイズ。作業は深くなるにつれて厳しいものとなってきます。髪の毛はもはや砂まみれ。

 

090211.jpg床面から約1mの深さで玉石はなくなり,きれいな土が見えてきました。埋め戻しはそろそろ底に近くなり,オリジナルの土が出てきているようです。

と,そのとき細長い陶器が穴の隅に横たわっているのが目に入りました。これはもしや鎮壇具の一部が盗掘をまぬがれて残っているのではないか・・・。との淡い期待がよぎりましたが。

今のところ,まだ正確には分かっていませんが,燭台の一部であるようです。クメール陶器にはあまり類例がありませんので,今後調べてみる必要があります。また,これが当初から埋設されていたものの一部であるのか,埋め戻しの際に混ざっただけのものであるのか,今後検討を要するところです。

この出土からほんの5cm程で,穴のはきれいな版築土となり,オリジナルの土層と判断されるに至りました。

しかしながら,昨年実施した中央塔の主室での発掘調査と比較しても,版築土は緩く,私たちがよく利用している山中式強度計からも高い数値は得られません。

さらに,これが本当に盗掘孔のそこであることを確認するために,穴の底を断ち切ってみましたが,やはり下層には埋め戻しの土は見られず,これがオリジナルである可能性が高いものと判断されました。

その後,この底からハンドオーガーを入れて下層を確認しました。最初2本は20cmほどの深さで石材にあたってしまいましたが,3本目は103cmの深さまで貫入され,穴の底から均質な砂質土であることが確認されました。

今日は、修復事業の団長である中川武(早稲田大学教授)が発掘現場を訪れました。

室内のクリアランスの結果,第6塔の台座の下にも,盗掘孔が埋め戻されている様子が確認され,台座を一度移動し、この盗掘孔の埋め戻し土砂を除去して,地下の構造を確認するために掘り下げる調査が決定しました。

 

ここ第6塔の室内中央には台座が設置されています。しかし,この台座は後世に運び込まれたものであることは明らかで,もともとは長方形の台座であったものを,正方形になるように欠き割って再利用されたものです。バイヨン寺院では,当初の台座が原位置に残されているものはほとんど見られません。当初は各塔の台座の上には神像が安置されていたはずですが,現在では神像となる石製彫刻が安置されている部屋はまれで,それらの神像もオリジナルのものではありません。

また,多くの部屋では,台座も失われており,台座がある場合でも,それらは後世にどこからか運び込まれたものにすぎません。バイヨン寺院では,いつの時代にか盗掘が横行し,神像の据えられた台座は移動され,その下に埋設されていた鎮壇具をねらった縦穴が掘り込まれました。

 

現在進められている南経蔵の修復工事では、盗掘はされていたものの、鎮壇具の一部が出土するという貴重な発見がありました。

バイヨン寺院では、南経蔵以外にもまだ建立当初の鎮壇具が眠っているかもしれません。(一)

 

*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成を得て進められています

サンボー・プレイ・クック遺跡群では,1998年より早稲田大学理工学部建築史研究室(代表:中川武)により,「サンボー・プレイ・クック遺跡群保全事業」が進められています。

今回は,煉瓦造祠堂の三次元レンジレーザー測量をN18と番付されている塔で行いました。バイヨン寺院,およびにここサンボー・プレイ・クック遺跡群では,東京大学池内研究室による協力の下,かねてより三次元計測が進められています。また、昨年からはアンコール・ワットの回廊の浮き彫りの三次元計測がアプサラ機構と共同で始まりました。

N18塔は木の根が塔全体に絡みついた,ある意味,歴史の創った芸術的ともいえる景観を呈しています。これまでに,保全事業では遺跡群内の寺院の図面を作成してきましたが,今回はこの塔の立面図を作成するために三次元計測を実施しました。計測では,東京大学・大石岳史先生の協力を得ました。

三次元計測によって得られたイメージもまた,不思議な迫力があります。(一)

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中央塔群の西側副塔である第6塔の発掘調査に対象を変更して,再び調査をするか否か、検討を行いました。

第6塔の床面に堆積している土砂のクリーニングを行ったほか,平面記録,石材のレヴェル測量などを進めています。

 

昨日,バイヨン寺院では,内回廊の基壇の縁が一部滑り落ちて観光客がケガをするという事故が生じました。それに対して,緊急処置として,基壇の石材を固定する処置を施しました。この寺院では以前より「危険箇所目録」を作成していますが,昨年,本事業の団員であるロバート・マッカーシーが「危険箇所の再調査」を実施しました。また,今年1月までインターン団員として参加していた朴ドンヒもまた「既往の修復箇所目録」を作成し,バイヨン寺院における新たな補強処置の必要な箇所を総ざらいしました。危険箇所は600カ所以上確認されたほか,既往の補強処置がすでに効果を失い,適切な対応が急務とされる箇所が300カ所以上に上っています。

適切な対応が必要となっています。(一)

 

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残り2材の小さな石材もやはり同様で,解体をしたものの,その下には大型の石材ががっちりと敷き詰められており,この時点で石材の解体は断念せざるを得ない状況に至りました。

どうしても石材を取り外す,というのであれば,解体する石材の上面に数本のピンを埋め込んで,滑車で引き上げるという方法もありますが,今回の調査ではできるだけオリジナルの構造には手を付けないことを原則としているため,ピンの埋め込みなどは避けることとなりました。

 

この時点で,これ以上の解体は不可能と判断され,当初の目的であった,主室壁体の直下の構造を探る発掘調査は断念されました。

現時点では、この部屋での調査に代わって,さらに西側の部屋である第6塔の発掘調査の実施を検討しています。(一)

 

*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成を得て進められています。

敷石の解体が進み,ようやく第一層が全て取り除かれました。この段階で第二層の平面図の作成,各石材のレヴェル測量などが行われます。第一層の石材はいずれも約10c程の薄いもので,後世に床面を嵩上げするように改変したと考えることも可能ではありますが,おそらく建設当初の時点で,床面の高さを調整するために薄い石材を敷き詰めたものと考えた方がよさそうです。

この敷石の層に引き続き,第二層の石材の解体に取りかかりました。この下層の石材は,大きなものが多く,とても取り外しは難しそうに見えますが,中でも3材だけは比較的小型の石材で,何とか取り外せないことはなさそうです。

 

解体に取り組んで数十分,ようやく一番小さな石材を解体することができましたが,その下から見えてきたのは再び,石。。。

取り外した小型の石もまた厚さ10cm程度のもので,実は隣り合う石材が階段状に欠き込まれて,そこにただ載せられているだけだったのです。(一)

 

 

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*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成を得て進められています。

敷石となる石材が一つ,取り外されました。

しかしながら,この作業,予想以上に難航し,いろいろな工具を用いて四苦八苦の末,ようやくのことで解体できたのです。解体作業の前の目視調査からではよく分からなかったのですが,石材間の目地には徹底的にモルタルが充填されていたのです。過去にフランスが保存処置として実施したものだと思われます。昨年,主室で解体発掘調査を実施した際には,このようなモルタルは認められませんでした。

また,予想外に,最上層の石材は厚さ10cm程度と薄いものでした。石材を外すと下には汚い黒い土が溜まっており,小さな虫がワサワサと動き回っているのに背筋が凍ります。よく呪われた秘宝を発掘する考古学アドベンチャー系のハリウッド映画で,体に入り込んでくる黒く光る虫がいますが,あんな場面を想像せずにはいられません。つい作業を交代してもらったりも。

取り外した敷石の下方からは,再び別の石材が見えてきました。当初の推測では,この敷石の下にはラテライト材の基礎が見えてくるはずだったのですが・・・。先の思いやられる事態です。

その後,2材3材と石材の解体が進み,ようやく1m四方ほどの小さな部屋の半分ほどの石材が解体されましたが,モルタルによって接着された石材にダメージを与えないように取り外すのは大変な労力を伴う作業となりました。(一)

 

*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成を得て進められています。

 

「今日のバイヨン」ようやく初めてのバイヨン寺院の紹介となります。

 

バイヨン寺院では,1994年より「日本国政府アンコール遺跡救済チーム」によるさまざまな活動が進められています。今後いろいろな調査研究,そして修復活動についてご紹介できると思いますが,今日からはシリーズ「中央塔の発掘調査」をしばらくお伝えします。以前から,発掘調査の経過をライブな感覚で伝えられたら面白いだろうなと思っていましたが,ここでそんな雰囲気を試してみましょう。

 

バイヨン中央塔は,専門家によっては「いつ壊れてもおかしくない」と言われるほどに構造的に不安定である可能性が指摘されてきました。この塔の安定性・安全性を評価し,危険であるならば,適切な処置を施すための研究が進められています。

 

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地上より42mの高さに達するこの中央塔は,上部の石積みが変形して倒壊にいたる危険性と,地下の基礎構造が変形して崩壊にいたる場合の2つの可能性が考えられます。

 

2008年8月に,後者について,つまり中央塔の構造を確認すべく発掘調査が実施されました。調査の結果,中央塔を支えている壁体の直下には石積みが存在せず,突き固めた砂によってのみ支えられているという可能性が高まりました。しかしながら,これだけ大きな加重を支えている基礎を砂で支えているとはいささか信じがたいところです。まさに「砂上の楼閣」ではないかというのです。

 

そこで,中央塔の基礎構造の追調査をこのたび2月2日より開始する運びとなりました。

今回は中央塔の西室にて敷石を取り外して発掘調査を行います。

調査許可を得て,すでに室内の平面図や断面図の記録は終えています。立ち入り禁止のフェンスと立て看板が設置され,本格的な調査初日となる今日は,安全祈願式から始まりました。

そしてようやく一つ目の石材が・・・取り外されました。(一)

 

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*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成を得て進められています。

 

ところで,このブログはアンコール遺跡のことを書かなくてはならないので,少し話の方向を変えましょう。

 

今回コーンの滝を見たいと思ったのは,やはり石井先生が仮説として示されているメコン河とムン川をもって「東南アジア大陸部を東西に結ぶ古代文化のルート」があったのではないかということに,以前より強い関心があったことによります。これは,私が以前ある奨学金をいただいたときの面接で,面接官であった石井先生が話されたことの中にこの件がコソッと潜んでいたことがきっかけで,それ以来,いつか自分で調べなくてはならない,と勝手に使命のように思っていることなのです。

 

2004年に,アンコールの古都シュレシュタプラの調査を何度か行い,その後メコン河沿いのクラチエやストゥン・トレン,そしてコンポン・チャムのクメール遺跡調査の悉皆調査に,そして昨年ようやくムン川沿いにも分布するドヴァラヴァティ遺跡の一部を見ることができました。そして,今回ようやくこのコーンの滝を見ることで,おぼろげながらにチャオプラヤー流域からムン川を経由して,チャンパサック,そしてメコン河に入ってタラ・ボリヴァット,サンボールを繋ぐ要所を確認することができたのです。

 

前に,少し触れましたが,なぜチャンパサックでクメール文化が発祥したのか,これは大きな謎です。港市国家として海岸付近にその前進の勢力は居を構えていたのですから。もしかしたら,チャンパサックがクメール文化の出自であるという前提自体が間違っているのかもしれませんが,これを追跡しようとしたとき,どうしてもインドからチャンパサックへの文化の流入路を調べておく必要があります。インドに発する外来文化が,ベンガル湾からこのチャンパサックに入ってくる経路がメコン河とは別にあるのではないかという説は大変魅力的なものです。

 

ただ,本当にまだまだ一部ではありますが,昨年訪れることができたドヴァラヴァティの遺跡を見る限りではやや疑問ももたれました。やはり文化が第一に流入した地域でもっとも高い精度の作品が創られ,そこから周囲へと伝播するうちに基本形は少しずつ崩れ精度を落としてゆく。一方で,別の発想を組み入れながら新しいものが発生するときに,先の技術力を上回る稀な事例があって,それが新たな基本形を創り出す。というようなプロセスを考えた場合,ドヴァラヴァティがワット・プーやタラ・ボリヴァットに先立っているとみるのは少し難しいような気がするのです。

 

文化の伝播や発展そのものにもたくさんの疑問があります。いったいどの程度の速度で文化は移動したのだろうか。グレートジャーニーのような,何百年何千年もかけたゆっくりとしたものではなかったでしょう。かといって,ハリウッド映画が一夜にして全世界中の人々に興奮をもたらすような速度でもなく。

 

また,美術史学的にみたとき,建築や彫刻といったモノのカタチに代表される図像的な表現はどうやって変化してゆくのか。スポーツ競技のマテリアルや自動車のデザインが技術や機能と符合しながら刻々と変化し,ニーズそのものを刷新してゆくのとどれほど違うことか・・・。

 

しかしとにかく,私はまだまだムン川沿いの文化については無知にも近い状況です。大河メコンのように大きな対象を前にしたとき,各流域を少しずつ断続的に繋ぎ合わせて,いずれその大河の全容が掴めるかもしれない,と微かな期待を抱くように,大陸部の「古代の東西文化交流ルート」もいつか全貌が見えてくるかも知れません。そうしたら,その先にさらにインドまでのルートが影を潜めて待っているのでしょう。そして,もう一方に中国への。

 

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遺跡から少し足をのばして「メコン河の大瀑布コーンの滝」を訪れました。正確にいうと,いくつもの瀑布群の中でも,最もメジャーなパペーン滝とソムパミット滝です。ワット・プーからバスで1時間半ほどでコーン島に,そしてさらにボートに乗り換えて1時間ほどでコーンヌ島,そしてさらに30分ほど島内を歩くとソムパミット滝へと至ります。パペーン滝は,ボートに乗らなくても国道13号線から少し入れば訪れることができます。

旅行書などにも良く記されているところではありますが,かつて中国への通商路としてこのメコン河に関心をいだいていたインドシナの宗主国フランスの野望を断念させたのが,この自然の要所,コーン大滝です。15mほどの落差にすぎないものの,毎秒7万から9万立方メートルという水量は圧倒的で,激しく周囲の空気を震わせ,近づく者に自然の激しさを迫らせてきます。大型船はもとより,小舟であってもとてもこの滝を乗り越えて物資を輸送することなどできないことでしょう。

 

 

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今回は石井米雄先生の書かれた「メコン」を片手に,小さな旅をしましたが,先生が最初に訪れた1950年代のこと,そしてそれを追従するように再訪された1990年代の記録と比較しても,あまりにもあっけなく,味気ないほどに簡単にラオス南部の各見所へと辿り着いてしまうのが悲しいほどでした。コーンの大滝にやっとのこと辿り着いたという,かつての感激など微塵にも感じられないほどに,ちょこっと船に乗って,ちょこっとバイクに乗ったら到着してしまうのでした。かつては,長い道中に思い描いた,様々な想いや深い考えが発見にも近い大きな創造力を育んだのでしょうけど,今はこれしきのことではそうした体験は得られないのです。そして,そんなことを残念に感じながらも,滝の前で売られていたアイスクリームなどを食べてしまうと,もはや絶望的なまでに感激というものから遠ざかってしまうのでした。

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